自由学園明日館公開講座「日本近代住宅史」-2

自由学園明日館公開講座「近代日本住宅史」の2回目の講座は、同潤会の江古田木造分譲住宅(30戸)の中で唯一現存している国登録有形文化財・佐々木邸の見学会でした。

今回の見学会での写真撮影は自由でしたが、ネット(ブログ・SNSなど)では公開しないという約束になっていますので、代わりに日大芸術学部の写真を掲載します。

参加者32人が4班にわかれ、神奈川大学の内田青蔵先生や佐々木邸保存会の能登路先生らの説明を受けながら建物の内外を見させていただきました。

建物は内外部の細部にわたり意匠が施されており、中々見応えがありました。

コンクリートの基礎の高さが400mm、広縁床から地面まで600mmありました。

市街地建築物法施行細則(大正9)では、第17条で「居室の床の高さは一尺五寸以上」とあります。又第19条で居室の採光面積は1/10以上という規定がありますが、これらは充分確保されているようです。

もうすでに行われているのかどうか聞き忘れてしまいましたが小屋組み・基礎(床下)調査をしてみたいという思いに駆られました。

基礎に設けられた床下通気口が幅600mmと広めで効果的な位置に配置されていました。

洋間の天井高は、一番高い部分で床から2730mm、客間などの和室天井高は2570mmありました。

台所は復元されたと聞きましたが、流し台の幅で広い出窓があり、開口部も高さがあるので明るくて使いやすそうに思えました。

戦前の住宅では、よく「日光室」という名称が出てくることが多いのですが、当時結核は、太陽の陽にあたると良いと言われていたらしくサンルーム、広い広縁、日光室というのを住宅に取り入れることが流行だったというのは、新しい知見でした。

尚、佐々木邸について詳しく知りたい方は、『受け継がれる住まい :住居の保存と再生法』住総研「受け継がれる住まい」調査研究委員会 編著、柏書房、2016年刊の中で紹介されていますので、読んでみてください。

内田青蔵(神奈川大学教授)、小林秀樹(千葉大学大学院教授)、祐成保志(東京大学大学院准教授)、松本暢子(大妻女子大学教授)の各先生が執筆されています。

同潤会の勤人向分譲住宅事業 -1

自由学園明日館公開講座「近代住宅史」で知りえた同潤会の勤人向分譲住宅と当時の建築法である市街地建築物法施行規則について調べてみました。

今度、昭和8年に建てられた江古田分譲住宅(30戸)の現存する住居を見学させてもらう予定なので、その予習みたいなものです。

なんと築83年の住宅ですね。残っていてくれてありがとう。感謝、感謝です。

既に神奈川大学の内田青蔵教授の研究などで発表されていますが、一次資料にあたる主義なので、まず昭和17年に発刊された「同潤会18年史」の勤人向け分譲住宅に関連する部分だけ読んでみました。

昭和3年に横浜市斎藤分町及び山手町に30戸、昭和4年東京市赤羽及び阿佐ヶ谷に30戸の分譲住宅を建設し、公募したところ「一般中産階級の異常なる歓迎を受け、希望者殺到して数十倍の多さに達する状況であった」と書かれています。

同潤会の勤人向分譲住宅は、東京、神奈川に合計20ヶ所、524戸建設されますが、昭和13年に「日支事変の影響を受け資材難に災害せられ、一時中止するの止むなきに至ったのである。」と書かれています。

東京市江古田及び横浜市斎藤分は土地付き分譲建売住宅、その他の18ヶ所は借地でしたが、借地年限は大体20年を標準としていて建物の返済が終わるとき借地の権利義務も同時に譲受人に移動することになっていたようです。

「同潤会18年史」には、この事業の平面計画、配置、付帯設備についての特徴が文章で書かれていますが、言葉だけでは理解しずらいので、この事業の分譲住宅を紹介している本を見つけたので読んでみました。

「便利な家の新築集」(婦人之友社刊・1936年・昭和11年)の中に「中流向け同潤会の分譲住宅」として昭和8年に竣工した大田区雪ヶ谷の一住宅が紹介されています。

敷地は約120坪、建坪35坪で将来の増築を考慮した配置になっています。

基礎の高さが地上1尺2寸(360mm)とあります。市街地建築物法施行規則(大正9)第17条には、居室の床高は一尺五寸以上(450mm)とありますが、その頃の主流は掘っ立て柱型式ですから、基礎の立ち上がりをコンクリート系にしているのは先進的だと思います。当時、基礎の高さは法的な規定はありませんから、かなりグレードの高い、戦後の住宅金融公庫の融資基準につながる設計方針だと思います。

その他、住まう人に寄り添った細やかな配慮ある設計が散りばめられています。

「押入れの床は、湿気を防ぐために、二重の板張りにして、その板と板との間に、フェルトを入れてあります。」「台所の天井のすぐ下には、湿気脱きの小窓を設けています」「台所の出窓を大きく取ってあるのは、台所の中を明るくするためにも、空気を乾燥させるためにも、また、洗い物を乾かす棚として使用するためにも、非常に便利」(流し台の給水栓先に出窓をとらず、流し台に対して90度の位置に出窓を取っています)等々

この雪ヶ谷分譲住宅の中の建坪31坪の場合、15年返済すれば自分のものなると書かれています。ちなみに当時の貨幣価値は良くわかりませんが、住宅料+借地料+経費で毎月36円弱の返済です。

2016年12月17日に神奈川大学の内田青蔵先生から御教授いただきましたところ、昭和9年大卒銀行員の初任給が月70円だそうです。ただ今の大卒と戦前の大卒では、その社会的地位がだいぶ異なります。また昭和7年の板橋区にあった賃貸住宅(3室)の家賃は月12円だったそうです。

防空建築規則

国土防衛の完璧を期する目的から昭和13年3月市街地建築物法が改正され主務大臣は、建築物の構造設備または敷地に関し防空上必要なる規定を設け得ることになつたので省令をもつて防空建築規則を制定することに決定、準備を進め昭和14年4月1日より同規則が施行された。

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【防空建築規則を紹介する冊子「空襲!吾等の都市の防備はよいか : 都市防空と建築の座談会」の表紙】

条文は二十条よりなり主なる事項は下記
一、木造建物の外周を隣地境界線および道路中心線よりの距離に応じ相当程度の防火構造としもつて火災の際その延燃を防止すること(第四条関係)
二、鉄筋コンクリート造りの建物および木造の建物にして規模の大きいものには防護室、準防護室その他防護の施設をなさしめまたは防空壕用の空地を保有せしめること(第九条、第十条、第十一条関係)
三、航空機の目標となり易い建築物については偽装のためその形態もしくは角彩の変更を命じまたは偽装のための準備壊尽をなさしめ得ること(第十八条関係)
四、石油タンクで容量の大きなものはこれを地下に設けしめまたは防護の施設をなさしめること(第十九条関係)

この規則は、新たに建築される建築物に適用されるもので、その適用区域は内務大臣がこれを指定することとなつているが、大体防空上必要なる都市が指定された

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【「空襲!吾等の都市の防備はよいか : 都市防空と建築の座談会」の目次・この本は国立国会図書館・近代デジタルアーカイブで読むことができる】

精神論と稚拙な技術が紹介されている。

「市街地建築物法」改正経過

【市街地建築物法】

1919年・大正8年公布(日本初の建築に関する全国的法律)
1934年・昭和9年改正(建築線と敷地,適用区域の指定に関する改正)
1938年・昭和13年改正(住居専用地区・工業専用地区・高さ制限・道路幅に関する改正)
1943年・昭和18年 市街地建築物法及同法施行令戰時特例
1947年・昭和22年 市街地建築物法の適用に関する法律
1947年・昭和22年改正(民法の改正に伴う「戸主、家族」の削除)
1950年・昭和25年11月23日廃止(同日建築基準法施行)

【市街地建築物法施行令】

1920年・大正9年公布
1923年・大正12年改正
1924年・大正13年6月改正
1924年・大正13年12月改正
1929年・昭和4年改正
1931年・昭和6年改正
1933年・昭和8年改正
1934年・昭和9年改正
1939年・昭和14年改正
1950年・昭和25年11月23日廃止(同日建築基準法施行令施行)

【市街地建築物法施行規則】 

1920年・大正9年制定時
1922年・大正11年改正
1923年・大正12年改正
1924年・大正13年6月改正
1924年・大正13年12月改正
1925年・大正14年改正
1926年・大正15年改正
1937年・昭和7年改正
1934年・昭和9年改正
1937年・昭和12年改正
1939年・昭和14年改正

「市街地建築物法の話」内務大臣官房都市計画課・大正15年

日本における建築に関する最初の総合的・体系的法制度は、大正8年4月4日に公布された「市街地建築物法」(物法)である。それ以前にも明治19年の滋賀県の「家屋建築規則」等の地方令があり、明治42年に大阪府は「建築取締規則」を制定している。また首都東京では建築に対する布告・布達や特定用途の建築物に対する取締規則は数多く見られる。東京市では総合的な建築条令の草案を2度にわたり準備したが制定に至らなかった。それら市街地建築物法制定以前の建築法制史については、別の機会に紹介することにする。

実は、昭和25年の建築基準法制定時には、実体規定の多くの部分が「市街地建築物法」から継承されている。

この「市街地建築物法」に目を向けると、法の理念から逸脱した文理主義に陥ることなく現代の建築基準法をより深く解釈することができると思っている。

さて、この本は大正15年に内務大臣官房都市計画課から発行された「市街地建築物法の話」である。国会図書館の近代デジタルライブラリーで読むことができる。

明治後期から大正にかけての東京・大阪を始めとした六大都市の都市の膨張、人口の集積により混乱する市街建築物が背景にあったことが良くわかる。

佐野利器は「改訂・解説市街地建築物法」(第14版・蔵前工務所編纂・国立国会図書館近代デジタルライブラリー)の序で、「都市計画法及び市街地建築物法は都市生活を悲惨より救済して之を幸福ならしめんが為の指針として出来たものである」と書く。

この本で説明が加えられているのは、地域、建築線、高さ及び空地、構造設備、防火地区、特殊建築物、美観地区、工事執行、既成市街地は如何に、所謂緩和規定とは何か、である。

斜線制限は出てくるは、防火地区(甲乙二種)は出てくるはで、現在の建築基準法の骨格は市街地建築物法に現れている。

「同潤会上野下アパート材料調査報告」(日本建築学会)

2013年に解体された最後の同潤会アパートの解体前の耐久性調査の報告書「同潤会上野下アパート材料調査報告」(2015年3月、日本建築学会・材料施工本委員会)を読んだ。

この同潤会上野下アパートは、竣工が1929年(昭和4年)である。

ここは建替事業でザ・パークハウス上野(三菱地所レジデンス)として生まれ変わるのだが、もう完成して入居開始が始まっただろうか。まあ 新しい建物にはあまり関心が無いので、この報告書についてだけ書いておこう。

今、戦前の鉄筋コンクリート建築物のコンバージョン・プロジェクトに参加しているので、どうしてもその頃の建築物や法令に触れることが多い。

この調査報告書では、コンクリート採取数が1号館で38本、2号館で31本 合計69本と4階建て延べ床面積2,093.99㎡(1号館556.80㎡、2号館1,537.19㎡)と約30㎡/1本となり採取コアが多い。現在の耐震診断の基準である3本/階から見ると約3倍の数となっている。

このコンクリートコアの圧縮強度試験は、柱・梁・壁・床と部位別と全体が示されていて全体で平均圧縮強度21N/m㎡という結果が報告されている。ただし床データを除外した場合には平均が19.5N/m㎡、標準偏差6.1N/m㎡となっている。

戦前の建物の構造部位別の調査報告というのが少ない。「同潤会アパートの施工技術に関する調査研究」(古賀一八他、2004年)で同潤会大塚女子(1930年)、同潤会青山(1927年)、同潤会江戸川(1934年)では、平均圧縮強度の部位別の内訳が不明なため強度や標準偏差の単純比較ができない。

今、関わっているプロジェクトでも数年前に耐震診断調査が終わって構造評定を取得している建物なのだが、コア採取が内部壁だけなので良くわからないことが多い。

ともあれ、学術調査でこれだけ念入りな調査を行い、調査報告書が世にでてくることは大変ありがたいことだ。