今井町 – 今井まちなみ交流センター「華甍」

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学生時代に今井町を訪れて以来だから、

もう何十年経っただろうか

今井町まちなみ交流センター「華甍」

(旧高市郡教育博物館)

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この建物は明治36年(1903年)に高市郡教育博物館として建てられ

昭和4年より今井町役場として使用されていた。

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現在は、今井町の歴史を解説する資料館

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雨が降っていたので 資料館には長居せず今井町の街を歩いた

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裏側の駐車場から

今井町を歩いている途中で晴れてきた

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この写真は到着したころ

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学生時代に今井町を訪れたのは、研究室で見聞きしたのがきっかけだったと思う。当時は電車とヒッチハイク(今では中々難しいだろうけど)で全国の建物や街並みを見て回った。

食べるものも食べず、駅や公園で寝泊まりし、ひたすら建築を見て回った頃が懐かしい。それが身についたかは別だが。

恩師・伊藤ていじ先生が、東京大学助手時代に関野克先生とともに調査に来られ

それが契機のひとつとなり

今西家(昭和32年指定)が重要文化財になり

平成5年に重要伝統的建造物群保存地区に指定され

現在の今井町の街並がある。

「成功」「造国」「知識結」

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【東大寺大仏殿に至る塀】

律令制度における造営・修理事業は、内裏は造宮省・修理職・木工寮が、寺院は造寺司が管轄して、諸国からの庸・調を財源として事業を行った。一方、神社の場合には造宮使が管轄して、神税を財源として事業を行っていた。

国家的規模の寺院や神社の建造・再建・修復には、たいていは「成功」(じょうごう)あるいは「造国」(ぞうこく)という制度がとられていた。

「成功」(じょうごう)とは朝廷の公事・行事及び殿舎の営繕、寺社の堂塔修造費用など本来、朝廷の公費で負担すべきところを、任官希望者を募って任料を納めさせるか、または自己負担でそれぞれの事業の功を成らせて、見返りに官職に叙任するという売官制度の一種である。

「造国」(ぞうこく)とは、平安時代中期から南北朝時代にかけて、内裏や寺社などの造営・修理の負担を割り当てられた国のこと。その責任者となった造国の国司(受領)を造国司(ぞうこくし)という。受領国司に財源をまかなわせ、国司は任国内の税物を加徴できるようになっている。これはうまくすれば収入の一部を私物化できるので、希望者も多かったようだ。

東大寺で思い出したことだが、重源は東大寺再建の時 国家予算で建築を主導したわけではない。

「知識結」(ちしきゆい)という方法である。

各所に「知識」(ちしき・智識とは、仏教の信者が善業を積み重ねるために寺院や仏像の建立や維持、写経や福祉などの事業のために金品などを寄進すること。また、寄進者や寄進物を指す場合もある。)を結び、これをネットワークする「勧進聖」を募り、これらを組みあげながらプロジェクトを進めるという方法である。そのリーダーを「大勧進」といった。大勧進は事業計画のすべてをまかされ、立案と予算の執行権をふるうことができ、知識物(これらは進退・進止とよばれた)を自由に差配することができるが、無報酬となる。

重源は東大寺再建を成した後「大和尚」の称号を与えられているから名誉と報酬は、後からついてきている。

「知識結」は、現代的に言うとNPOと言えるかもしれない。

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