「日本近代建築塗装史」社団法人 日本塗装工業会編著

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歴史的建築物の調査をしているうちに、明治・大正時代の塗装に興味が湧いて読んで見た。

この本では「建築塗装文化史」として塗装の起源から古代、西洋塗料の伝来、明治から昭和までの建築や構造物と塗装、塗装業界、塗装技術について書かれている。

塗装の歴史について、まとまつて本を読んだのは初めてだったので「目からうろこ」の部分も多々あった。

我国では西洋からの輸入塗料を用いた塗装工事が幕末から明治の初めにかけて開始され、塗装工事業が先に確立した。国産塗料製造が本格化するのは大正時代に入ってからだそうだ。

安政6年(1859年)に開港した横浜、長崎、函館、その後開港した神戸、大阪、東京、新潟に進出した外国商社は200社から250社といわれ、なかでも横浜はその60%が進出して活況を呈していた。

明治26年刊「横濱貿易捷径」では塗料を扱っていたと思われる商館は14社、その他「横浜商人録」(神奈川県立金沢文庫蔵)には、4人の邦人ペイント商が記載されているとある。

「明治村における塗装」の章では、塗装資料の検証に役立つ貴重な建物が保存展示されているとあり「三重県庁舎」の油性塗料を用いて高価な木材種の木目を描く「木目塗装」。「鉄道寮新橋工場」の移築前の鋳鉄柱、外壁鉄板、サッシュ等のすべての塗料はイギリスから輸入され、イギリス技術者の指導の下に建設されたとある。もつとも現存建物は近代塗料に塗り替えられている。

歴史的建築物の下地から現れる塗料の被膜。それは輸入品か国内品か、一体どんな塗料で、最初の色は何なのか。ミステリアスな世界が待ち受けている。

セットメーカーとデバイスメーカー

コンピューター業界に例えれば、PCを製造販売しているDELLやAppleはセットメーカーで、PCを作るのに必要な部品を供給しているインテルやサムソン、ハードディスク、マウス、プリンター等の周辺機器メーカーはデバイスメーカーになると言われています。
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ただし、TV業界の松下電器の場合、TVセットを製造販売している点ではセットメーカですが、TVセットに必要なキーデバイスを提供する部品メーカでもあります。このように水平分業体制がきちんと構築されている業界以外は、セットメーカーであり部品メーカーでもある場合が多いの実状です。
完成品を作るメーカーは「アセンブリーメーカー」とも呼ばれます。アセンブリーメーカー以外は「デバイスメーカー」というとも言われています。
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建築業界の建築設計事務所もセットメーカーとデバイスメーカーに分かれます。
一般的な建物の場合、意匠事務所がセットメーカーであり、構造・設備・電気等の専門事務所がデバイスメーカーで、最近では省エネ・CASBEE・避難安全検証法・耐火安全検証法等の専門コンサルタントもあり、各専門事務所も多岐に渡るようになりました。
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また意匠事務所でも他社の実施設計を請け負う事務所もあります。
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最近、知人との話題で良く話がでるのは、建築プロジェクトに係る事務量の増大です。それだけ建築プロジェクトに係る法令の増大、許認可が増えています。所員は増やせないし労働時間もこれ以上増加させれない(現状でも充分、労基違反)。おのずと外注依存度が高くなる。利益が出ない。そうした経営者の悩みを多く聞きます。
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またセットメーカー的建築設計事務所の力量の低下を指摘する向きもあります。事務所の世代構成上、中堅どころが少ない事務所は悩みが尽きないようです。
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大手組織事務所は、デザインビルドに舵を切り始めたところも出てきました。
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先行きを心配する人も増えてきました。日本の人工の減少、経済の縮小、オリンピック需要の終焉と消費税の値上げが重なる2019年以降の不安。
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これから建築業界は、どうなっていくのでしょうかね。
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弊社は、各種ソリューション・法令・環境等のデバイスメーカーですが、最近は増改築・用途変更の実施設計・監理まで一貫して依頼されるケースが増えてきたので
デバイスメーカーでありながらセットメーカーでもあるかも知れません。
これからも「隙間」を探していくしかないのでしょうか。

「Pen・2016・10/1・№414 いま行くべき美の殿堂 ミュージアム最新案内!!」

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妻が買ってきた「Pen」の最新号。

中々 刺激的な建物が掲載されている。

巻頭写真は、ドレル・ゴットメ・田根/アーキテクツ(DGT.)の「エストニア国立博物館」。場所の記憶。滑走路から未来への飛翔。

パラパラとページをめくっていて見てみたいと思った建物は、

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ひとつは、藤森照信さんの岐阜県「多治見市モザイクタイルミュージアム」

これは、近々 岐阜県に行く予定があるので是非立ち寄ってみたいと思った。

http://www.mosaictile-museum.jp/

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そして フランクゲーリーの「フォンダシオン ルイヴィトン」。

パリ西部ブローニュの森にあるアクリマタシオン公園に2014年に完成した。

写真は、フランク・ゲーリーのオリジナルの外観。

現在は、ガラスの帆に13色のフィルターと白いテープがダニエル・ビュレンによって加えられ「光の観測所」というアート作品になっている。

http://www.fondationlouisvuitton.fr/ja.html

「日本の植民地建築~帝国に築かれたネットワーク」西澤泰彦著

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2009年に日本建築学会論文賞を受賞された、現名古屋大学教授である西澤泰彦さんの本です。戦前、日本帝国の拡大・侵略・統治とともに東アジアに広がった植民地(朝鮮・中国・台湾)には、日本の近代建築から忘れ去られた建築群がありました。

西澤さんは、建築が植民地支配に果たした役割を余すところなく描き出すとともに、近代日本建築史の欠落を埋め、初めて本格的な歴史的評価を示した人です。

この本では、台湾総督府・朝鮮総督府・関東都督府・満鉄・満洲国政府の建築組織とそれぞれのネットワークを明らかにしています。

また植民地建築を支えた建築材料~煉瓦・セメント・鉄に焦点をあて、これら材料の確保の実情を明らかにしています。植民地経済の実態に迫るもので非常に興味深い論考でした。

台湾では、1900年(明治33年)の「台湾家屋建築規則」、「台湾家屋建築規則施行規則」が本土と比べても早く法制化されていますが、それは都市化が急速に進んだという事を示しています。

台湾では、本土より早く普及した鉄筋コンクリート造の建物が普及し、建築後10年程経過して柱、梁の亀裂が入りコンクリートの剥離や脱落が見られるようになり、台湾総督府の栗山技師が調査・研究にあたったと書かれています。その結果を1933年1月刊行の「台湾建築会誌」に「鉄筋コンクリート内の鉄筋の腐食とその実例」という論文にしたと紹介されています。それが日本国内でも注目を集め、台湾で起きた問題は日本国内でも将来起こりえる問題として捉えられ、1936年8月には当時の鉄筋コンクリート造構造の権威であった東京帝国大学教授の濱田稔と日本大学教授の小野薫が台湾を訪問し、被害実態の把握と原因の考究をしたとし、その内容を紹介されていますが、現在につながる鉄筋コンクリートの耐久性の問題は、とても面白かったです。

台湾でいち早く普及した鉄筋コンクリート造は、問題が表出するのも早く、台湾総督府の技師たちは対応策も考えられたにもかかわらず、その蓄積された技術が十分に日本国内の建築技術には生かされなかったようです。

西澤さんは「建築はもっとも雄弁に時代を語る存在である」という村松貞次郎さんの言葉を掲げています。建築を語ることは、その時代を語ることであり、歴史を語ることにつながるという視点はとても大事だと思いました。

「建築再生学~考え方・進め方・実践例」編著:松村秀一

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2016年1月に市ヶ谷出版から発行された本です。

「これからは既存の建物に手をかけることが主役」という時代認識のもと、建築再生という新分野の課題や実務上の展開の方法を体系的に捉えることを全面的に支えようという意図で編まれたものと書かれています。

大学等の教育機関での「建築再生」の教育方法は、未だ手探りであり、全国的みても「建築再生」の講座がある大学はないのではないかと思います。

個人的には大学等を卒業して一定の実務経験を経た人を対象として「建築再生学」を学ぶ場所を提供した方が良いのではないかと考えています。建築再生のカリキュラムを考えたとき、各個別の項目である建物診断、構造、劣化、設備、外装、内装、法的知識等は何れも基礎的知識がありその上で個別の対応が必要になります。すなわち応用が必要となります。

私の場合は、建築基準法等の法的アプローチで「建築再生」に関わってきましたが、例えばコンバージョンの場合、現在の用途と変更後の用途の、独自の法チェックリストを作成して計画段階から問題点を整理したり、検査済み証が無い場合の手続きを担当し、そこから建物診断や耐震診断・耐震補強業務に関わってきました。

ついこないだまでは、黒子の業務が多く「図面を書かない設計事務所」と言っていたのですが、最近はデザイナーとのコラボレーションのケースや実施図面まで全て依頼されるケースも増えてきました。又歴史的建築物の業務比重も増えてきています。

「建築再生学」を進めていくうえで「建築病理学」も体系的に整理していく必要があると思います。

いずれにしても この本は「建築再生学」を体系的にまとめてあり、「建築再生学」の教科書として利用できる わかりやすい本になっています。

ヒアシンスハウス・2016 -1

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夏も終わり近く 涼しげな風と優しくなった光に包まれた別所沼

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前回から2年半経過しているが、また訪れてみた。写真のような木彫りの看板ができていて、名称も「ヒアシンスハウス・風信子荘」になっていた。

詩人であり建築家であった立原道造のスケッチを基に、立原道造の夢を継承するするために建てられた。

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夏の別荘らしく窓が全て開かれて、冬とはまた別な表情を見せていた。

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先駆的な建築法令「家作建方条目」

外国人居留地は、政府が外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域だが、近代日本では、1858年の日米修好通商条約など欧米5ヶ国との条約により、開港場に居留地を設置することが決められ、条約改正により1899年に廃止されるまで存続した。
横浜港は1859年7月4日に正式開港し、まず山下町を中心とする山下居留地が造られ、1867年には南側に山手居留地が増設された。
横浜居留地
医師でアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師デュアン・シモンズ(1834年~1889年)は、1859年11月に開港まもない横浜に上陸した。翌年宣教師を辞しているが、辞任後も日本に留まり、医療と医学教育に力を注いだ。
シモンズは、横浜には船が来るから海上防疫をやれとか、便所は井戸の近くにあってはいけないとか、いろいろ提案している。日本政府はもちろん横浜でも衛生局というのをつくって予防をしなくてはいけないと建言している。いわゆる公衆衛生を推奨した。
シモンズの提言等を受けて、明治5年7月神奈川県県令になっていた大江卓(1847年~1921年)は、「家作建方条目」を作る。
シモンズや近代的ヒューマニズムの先駆者であった大江卓無しには、この「家作建方条目」制定はありえません。
先駆的な建築法令であった「家作建方条目」
明治6年に制定された、この「家作建方条目」の冒頭に適用範囲として「当港内外」とあるので、横浜港付近にだけ施行したもので神奈川県全体に適用されたものではない。又明治19年以降他の地方都市で制令化されたものが「長屋」に限定されたものだったが、全ての建物に適用している。
第1条は、外壁を耐火性能又は防火性能にしなさいという趣旨。
第2条は、屋根の不燃化。板屋根・杉皮葺・藁葺の禁止。発見した場合は除去・罰金刑
第3条は、場所により、表の道路に面しない裏に借家を建てることを禁止。
第4条は、便所と井戸は近くに作ることを禁止。
第5条は、工事中の検査の規定(中間検査)。
第6条は、「カマド」は石造・煉瓦造・塗屋にする。
第7条は、床高は2尺以上・貸長屋を含む。
第8条は、流しから下水の途中に金網をつけ塵芥を下水に流さない。
第9条は、下水は土中に埋込、往来の下水に取り付ける。
第10条は、地面内に不浄水の溜場を作ることを禁止。
第11条は、軒先は道路・敷地境界線より先に出さない。
文末尾に、竣工後の届出見分が規定されている。
制定時には、着工時のチェックがなく、第5条の中間検査と、末尾に竣工後の届出見分が規定されていた。
条目不達一か月後の8月19日に追加的不達が出て、「往来道路」に面する建物については着工前に図面を添えて許可を願い出ると規定されている。
さらに同年10月9日には、二回目の追加的不達が出て、第3条の裏貸家禁止を緩和している。
以上のように「家作建方条目」は、防火と衛生(下水)に関する規定が主で、当時の横浜の社会的状況を反映したものであったが、近代日本では先駆的な建築法規制であった。