北浦和公園 -1

JR北浦和駅から歩いてすぐに北浦和公園はあります。埼玉県立近代美術館もこの公園の中です。

駅近なのは良いのですが、駐車場が無いのがちょっと不便です。

旧制浦和高校の跡地で、その後埼玉大学となり、昭和46年に埼玉大学が移転した後、昭和48年から整備を始め昭和49年(1974年)に開設されたそうです。さすがに46年経過すると樹々の緑が多い公園になるんだなぁ~と感心しました。

噴水の中に、サックスのオブジェ

フェルナンド・ボテロ「横たわる人物」

北浦和は、ちょっと知的な感じを醸し出している街で、埼玉では好きになりそうな街です。

埼玉県立近代美術館 -3

埼玉県立近代美術館は「椅子の美術館」としても有名で、自由に座れるグッドデザインの椅子も数多く紹介されています。現在は新型コロナウイルス感染防止対策として、座ることができませんが、そのかわり企画展は無料でした。

写真は、マルセル・ブロイヤーの「ワシリー・チェアー」。100年前のデザインとは思えませんね。椅子に使われている皮は随分と擦り減り、傷だらけでしたが、まあ老人の皺のようなものだと思えば良いのかと。

色々な椅子が展示されいて楽しめます。

埼玉県立近代美術館は、JR北浦和駅から徒歩数分で、とてもアクセスが良い美術館です。北浦和は、小さな個性的な店が点在しているので、散歩していて発見があり、とても楽しいです。

そのひとつが珈琲専門店の「越」です。自家焙煎の珈琲が多種楽しめます。中山道(国道17号線)沿いにあります。こじんまりとした店ですが内装はクラッシックで重厚さがあります。

黒い食パンのサンドイッチ。物珍しさで持ち帰りを買って食べてみましたが、意外と美味しかつた。

埼玉県立近代美術館 -1

雨が上がった土曜日、北浦和の埼玉県立近代美術館に行ってみた。かの黒川紀章さんの設計。1982年(昭和57年)開館だから、もう40年近くなるんだなぁ~と感慨深かった。

コンクリートのフレームとフレームの間から入ってみたくなる。

手を消毒し、入館証に記入し、検温され、当然ながらマスクをしていないと入ることはできない。

2階の企画展示室からみたアプローチ部分

内側からみたフレームの隙間

道の駅・みのりの郷東金

千葉県東金市の道の駅・みのりの郷東金に寄ってみた。

国道126号線に沿って建てられていて駐車場が184台停められる大きな道の駅。国道126号線はかなりの交通量で、ロードサイド型店舗もひととおり出店している。

道の駅の直売所は商品が充実、レストランは別棟、そして「植木のまち東金」らしい緑花木市場がすごい。盆栽がかなり充実しているように見えた。植木を求めて遠くから客がくるというのがうなずける。聞くところによると植木類は、東京で買う価格の半額とか。

直売所は、木造平屋建て、梁はトラスになっているようだ。

別棟のレストラン

メロンシャーベットの上にメロンシロップがかかっている地産地消のジェラードが美味しかった。季節によってトマトや苺のジェラードが提供されるとか。

道の駅・オライはすぬま

千葉県山武市の道の駅・オライはすぬまに寄る。

「オライ」とは「私の家」の意味

定食を食べた。ミニイワシ丼とミニ幸福丼(鰯のすり身をほぐして煮ている)と言う事だったが、御飯の量が「ミニ」ではなく 普通に多かった。

なめろうも食べてみた。

海に近い道の駅なので、海の幸が前面に出ていた。

「歴史人口学事始め・記録と記憶の90年」速水融著

著者の速水融先生は、2019年暮れに90歳で亡くなれたが、日本において歴史人口学を開拓し、宗門改帳を使った人口動態調査という数量資料を取り入れ、統計手法を通じて歴史的研究を行った先駆者です。この本は速水先生の自叙伝で、幼少期からの体験に始まり、戦中、戦後と、どのような時代背景の下で、どのようにして自己が形成されたのかが克明に記されている。最近は、この速水先生の本をまとめて読んでいたので、この本は先生の最後のメッセージとして受け止めた。

さて、歴史の事柄をあまり書いても、このサイトの読者には、あまり関心がないと思うので、「本の中の建築」について記しておく。「映画の中の建築」と別のカテゴリーが出来てしまった。

【現在の港区立高輪台小学校】

速水先生は、1929年(昭和4年)に東京で生まれ、1936年(昭和11年)芝区高輪台尋常小学校に入学された。この年、2.26事件が起こり時代はきな臭くなっていく。

この芝区高輪台尋常小学校は、現在の港区立高輪台小学校であり現存している。

校舎は、昭和10年に建てられた関東大震災の復興小学校で、いざというときの防災拠点として計画されたもののひとつ。東京都選定歴史的建造物に選定されている。築85年、都内で残り少なくなった戦前の建物のひとつです。

鉄筋コンクリート造一部鉄骨造、地下1階地上3階、延べ床面積6688.58㎡、屋内体育館、25mの屋外プールという新式の設備を持つ学校で、完成当時は東洋一の小学校と言われたそうです。当時周囲には高層ビルがなく、白亜の校舎はひときわ目立ち、校舎からは東京湾を間近に臨むことができたとか。

2005年(平成17年)に大規模改修工事が行われて、現在屋外プールの部分に校舎が増築工事中である。

【グーグルより】

1960年(昭和35年)前後には、児童数3000人以上が在籍した超過密校だったのが、増築が計画された2016年(平成28年)には525人、学級数16室。今後の見通しとして児童数が増加するとのことで普通教室4室を既存部分に確保し、増築部分には特別教室を整備すると港区の資料に書かれています。

この本の中で、1938年(昭和13年)10月に、ヒットラー・ユーゲント(1926年に設けられたナチス党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織)数十人が高輪台小学校を訪れ、スマートな行進を見せ、素直に感心したと書かれています。作詞・北原白秋、作曲・高階哲夫「万歳ヒットラー・ユーゲント」を全員で歌って迎えたと。

一、 燦たり輝く ハーケン・クロイツ ようこそ遥々西なる盟友 いざ今見えん朝日に迎へて 我等ぞ東亜の青年日本 万歳ヒットラー・ユーゲント 万歳ナチス

二、 聴けわが歓呼を ハーケン・クロイツ 響けよその旗 この風この夏 防共ひとたび 君我誓はば 正大為すあり 世紀の進展 万歳ヒットラー・ユーゲント 万歳ナチス

三、 感謝す朗らに ハーケン・クロイツ 交驩かくあり 固有の伝統 相呼び應へて 文化に盡さん 我等が選士も 幸あれその旅 万歳ヒットラー・ユーゲント  万歳ナチス

四、 燦たり輝く ハーケン・クロイツ 勤労報国 またわが精神 いざ今究めよ  大和の山河を 卿等ぞ栄ある ゲルマン民族 万歳ヒットラー・ユーゲント 万歳ナチス

今思えば、すごい時代を生きてこられたのだなと思います。

「できそこないの男たち」福岡伸一著

この6月、段ボールにしまっていた本を全て出し、壁面いっぱいに並べた。

パートナーとは専門が違うので、それぞれの専門書は互いの部屋におき、それ以外の本はリビングの壁面に並べた書棚に展開された。大きくなってきた孫達が、本好きに育ってもらいたい、少しでも本に関心を持ってもらいたいと思ったから。

これまで随分と本を買い、処分し、概ね50年間に取捨選択され残った本。

 その中で私の目に留まった一冊の本が「できそこないの男たち」である。パートナーの本であり、今まで存在も知らなかった。

何しろ書名が刺激的だ。

 私の生物学の知識は、中高生レベルである。しかも分子生物学については、基礎的知識もない分野である。ゆえに読み終えるのに随分と時間が経つた。

 教科書は、事後的に知識や知見を整理し、そこに定義や意味を付与しているので、読み終わっても何の感慨も、興味も湧いてこない。福岡さんの本は、何故、其の時、そのような知識が求められたのかという切実さが科学史という時間軸の中で活き活きと記述されている。顕微鏡で精子を見たアントニー・ファン・レーウェンフック。Y染色体を発見したネッティー・マリア・スティーブンズ。性決定遺伝子をめぐるデイビド・ペイジ (David C. Page) とピーター・N・グッドフェロー (Peter Goodfellow) の研究の競争が記される。

 メスは太くて強い縦糸であり、オスはそのメスの系譜を時々橋渡しし、細い横糸を役割を果たす「使い走り」に過ぎない。男性は生命の基本仕様である女性を作り変えたものだから、ところどころに急場しのぎの不細工な仕上がり具合になっているところがある。胎児は、受精後7週目にあるスイッチがオンになり変態がはじまる(SRY遺伝子スイッチ)

 生命誕生から10億年経過した頃、大気に酸素が徐々に増え、気候と気温の変化がよりダイナミックになり、新しい形質を生み出すことができない種は全滅の危機にさらされた。メスたちはこのとき初めてオスを必要とすることになった。ママの遺伝子を他の誰かの娘のところへ運ぶ「使い走り」。現在全ての男が行っていることはこういうことなのである。アダムがイヴを作ったのではない、イヴがアダムを作り出したのである。自分たちのために。

 統計的に男より女のほうが長く生きる。いつの時代のどんな地域でも、あらゆる年齢層で常に男のほうが短命である。男を男たらしめるテストステロンは、全年齢において放出され続け、免疫系を傷つけ続ける。Y染色体という貧乏くじを引いたばかりに、生物の基本仕様である女の路線から外れ、使い走りにされた男たちはこのプロセスで負荷がかかり、男性の生物学的仕様に不整合を生じされられた。

 Y染色体からみて、日本人は単一民族ではない。出アフリカを果たした「C、D、F」系という三つのY染色体の系統が流れ流れて様々に分岐したあと、もう一度落ち合った特別な場所が日本列島である。日本列島は「人種のるつぼ」なのだ。

 社会経済構成体の運営をイブ達に返す時代が来たのかもしれない。少なくてもフィフティーフィフティーに。

目から鱗の本だった。

道の駅

地方に出かける機会があると、道の駅に立ち寄り新鮮な野菜を買ってくる事が多いが、道の駅も昔と違い 随分変化したなと思っていた。その変化の道程を知りたいなと思い「道の駅/地域産業振興と交流の拠点」関満博・酒本宏著、新評論刊を読み始めていた。

道の駅が、地域の経済・社会にとって、どういう意義を持つのか意識して書かれた本は少なく、今後の進化・変化の方向性を探る上で とても参考になった。

以前の道の駅は、やたらと軒下空間が広く、そこが農産物の直売スペースだった。建築確認申請は、外気に開放されたピロティで床面積非算入。実態は屋内的利用は恒常的で当然床面積に算入されるべきだったが、最近は農産物直売も室内になったものが多い。当然ながら道の駅のデザインも変化してきている。

ちょうど日事連10月号が届いたので見てみると特集が「地域を活気づける道の駅」だつた。最近の道の駅は複合的で大規模化している。それもそのはず 色々な機能が盛り込まれている。

道の駅は、当初は道路利用者のための「休憩機能」、道路利用者と地域の人々のための「情報発信機能」、道の駅を核とした地域の町どおしが連携する「地域の連携機能」の三つの機能が意識されていたが、やがて地域の農産物や加工品の直売といった「地域産業振興の機能」が加わり、さらに現在では「防災機能」も強く意識されている。

「地方創生・観光拠点」も結構だが、地方の人口減少・高齢化への対応といったことも差し迫っている課題だ。

「道の駅・ガイドブック」も手に入れたので、もう少し全国の色々な道の駅を見に行きたいと思っている。

マイ・ディア ミスター

2018年に韓国で放送されたテレビドラマ「マイ・ディア ミスター~私のおじさん」。

今回は、映画の中の建築ではなく構造技術と構造技術者の事について書いてみる。主演はイ・ソンジュンと歌手のIU。イ・ソンジュンの役どころが大手建築エンジニアリング会社(建設会社と解説している人もいるが、耐震性能評価をしているので私は違うように思う)に勤める構造技術者。新築建物の設計をする構造技術者のエースだったのが、後輩が社長になり安全診断チームの部長に左遷されたという設定。この安全診断チーム3は、どうも建物の耐震診断を行う部署らしく、他の2チームに比較して大規模な物件を担当しているが技術者は4人だけ。耐震診断の現場調査にも出向き、クラックスケールをあたる場面やドローンで塔のクラックを測定するところなど現場調査の場面も随所に展開されていて、とても親近感を覚えた。またセリフに建築や構造に関する専門用語が散りばめられているので興味深く見てしまった。

さて「大韓民国(以下韓国と略す)では、過去2世紀の問、地震活動度は大変低かった。そのため、20世紀後半まで地震荷重は、建築物や橋の設計において無視されていた。1978年にSeoulの南約200kmに位置するHong-Sungで、起こった地震は韓国国民に地震被害の恐ろしさを改めて思い起こさせる契機となった。1985年にメキシコ地震が起こるに及んで、緊急に耐震設計を導入することとなった。すなわち、20階建て以上のすべてのマンションは、アメリカのUBCに規定されているZone2の耐震設計にしたがって設計されることとなった。1995年兵庫県南部地震は、その人的および物的被害の甚大さにより、韓国での建築物の耐震性を見直そうとする気運を盛り上げた。また、1999年9月に起こった台湾での地震はこの気運をさらに加速することとなった。
韓国は、地震国ではないように考えられがちであるが、実際にはそうではない。1400年から1800年の間に、改正メリカリ震度階で7よりも大きな地震の回数は、152回を数える。1801年から現在までは、その数は大きく減少しているが、計測機器の発達もあり、今世紀に入札増加する傾向を見せている。このような状況のもと、1988年には最初の耐震設計基準が施行された。その後、10年以上が過ぎ、現在基準の見直し作業が行われている」(出典:「大韓民国における建築物の地震被害低減に関する国際共同研究」京都大学2002-03)

そうした中、2016年に慶州地震(M5.8)、2017年に浦頂地震(M5.4)と立て続けに内陸部に被害を及ぼす地震が発生している。

韓国では、2005年以前に建設された3階建て以上の民間建造物のほとんどに、耐震設計がなされていないようで、このドラマの背景には韓国の既存建物の耐震化という差し迫った社会的要求があるようだ。

このドラマを見て、韓国の耐震性の問題、RC建物の構造特性やソウルの住宅事情を知ることができた。

ドラマは、会社組織の派閥争いの中での中間管理職の苦悩やシニア世代の様々な苦悩が描かれていて、余韻が残るドラマに仕上がっている。私は全体として秀作だと思つた。歌手のIUは現代子のチャラいねーちゃんかと思っていたが、セリフが少ない表情のない役柄は彼女のミステリアスな面を引き出している。

「構造技術者は利害関係に左右されず、まず第一に構造技術の観点で判断・評価すべし」パク・ドンフン部長の言葉にしびれる。

道の駅 多古・あじさい館-1 

雨の金曜日、成田市から多古町へ足を運びました。

結構モダンな建物です。

主に地元産の農産物を販売している店舗

多古米をブランド米として打ち出していました。

米を生かした関連商品も目立ちました。

飲食店の内部・あじさい御膳という豚生姜焼き定食でランチ

セミナー「建築ストックの再生と活用・リノベーションの肝と心」

10月7日、中野区内で日本建築家協会関東甲信越支部・中野地域会と東京都建築士事務所協会中野支部共催のセミナーで講師をしてきました。

今年の新型コロナウイルス感染拡大で伸び伸びとなっていた企画でしたが、ようやくオフラインの集まりが開催出来るようになりました。大きな会議室に定員の半数以下の人数で参加者を絞った集まりにしたそうです。それでも雨の中20人程の参加者がありました。

私は、2019年に同様なテーマでセミナー講師をしていますので、今回はそれらに加筆して検査済証の無い建物の増築4件、用途変更2件の事例報告を行いました。

参加者は、習熟した実務者がほとんどで、セミナー後の質問も沢山ありました。

参加者と同じ実務者ですから、セミナーと言うよりは、公開カンファレンスのようなものかもしれません。20人程度というのは規模としては 意外と適正で質問も多くでやすい規模かもしれません。

追悼・エディ・ヴァン・ヘイレン

ハードロック界を代表する米バンド、ヴァン・ヘイレンを率いたギタリストのエディ・ヴァン・ヘイレンさんが10月6日、喉頭癌との長い闘病の末65歳でなくなりました。

演奏を聞くたびに、心に火をつけてくれた。ありがとうエディ。

土壌汚染対策法

先日、東池袋の造幣局跡地に出来た防災公園「IKE・ SUNPARK」と「としまキッズPARK」を見てきて思い出したのが「土壌汚染対策法」(土対法)

そう言えば この造幣局東京支局からは、「かつて貴金属地金を精製するために設置されていた製錬工場(昭和 44 年取り壊し)及び貨幣材料を溶解・鋳造・圧延するために設置されていた溶解工場(昭和 54 年取り壊し)の跡地周辺から、基準値を超えるセレンを含む土壌(最大で溶出量基準の 130 倍)及び地下水(最大で溶出量基準の 110 倍)が確認され、その他 2 箇所で水銀を含む土壌(最大で溶出量基準の 24 倍)、3 箇所で鉛を含む土壌(最大で含有量基準の最大 7.3 倍)が確認されました。」(平成 24 年 12 月 27 日・独立行政法人造幣局・「造幣局東京支局の土壌汚染自主調査の結果について」)

https://www.mint.go.jp/about/info/info_environment.html

この平成24年の自主調査のあと、平成28年12月から平成29年月に実施された土対法に基づく法定調査により基準値を超える有害物質が確認され平成29年5月22日に東京都から汚染が確認された範囲について「形質変更時要届出区域」に指定された。その後土壌汚染対策工事を行い2020年9月16日に指定解除されていた。

造幣局東京支局跡地の事を考えていたら、知人から新築する工場で設計事務所から「土対法の届出を工事着手30日前に建築工事施工者が提出してくださいと指示があったが、この届出は建築設計事務所がもっと以前に提出すべき代物ではないのか」という質問があった。

建築主が提出するものだが、プロジェクト全体のスケジュールに大きな影響を及ぼす重要な届出なので、誰が出すかは契約内容にもよるが、建築士なら知っておいて欲しい届出で、建物の設計事務所が単に知らなかったからではないかと意見を述べておいた。

そこで大規模な敷地、工場跡地に建築プロジェクトを計画する場合には、土壌汚染対策法に基づく「一定規模以上の土地の形質の変更届出書」の提出が必要。

・敷地面積3,000㎡以上の場合が対象

・建物を新築する場合でも「形質」の変更にあたり届出が必要。届出提出後に土壌調査命令の発出が判断される。

・新規に土地を購入する場合は、その敷地の過去の使用履歴をよく調べておく必要がある。特に工場跡地の場合や、既存工場内の場合、周辺が工業地帯の場合は、必ず地歴を確認する事

「感染症の日本史」磯田道史著

2020年。人類は新型コロナウイルス感染症の危機に直面している。現在も様々な情報に翻弄されながらも生きている。生きていくうえで 社会生活を維持していくうえで、どのような知恵を働かせるか。見えないもの、滅多にやってこないパンデミックに対応するには、総合的な知性が必要だと著者は語る。「総合的知性」からの発想がいる問題には、長く、幅広く、時間軸で物事を捉える歴史学が最も威力を発揮すると。

興味深かったのは、1858年ペリー艦隊のコレラに感染した乗組員が寄港した長崎でコレラが発生、8月には江戸に感染が拡大し3万人とも26万人とも言われる死者が出た。その後3年にわたって流行した。開国がコレラの感染を拡大したとして攘夷思想が高まる一因となったこと。

また孝明天皇の攘夷の意志は、1862年(文久二年)の麻疹(はしか)流行が大きな影響を与えていること。孝明天皇は観念的なものではなく、感染症を媒介として「異国は日本を害する」という現実に根差した認識を反映しているという指摘は興味深かった。確かに「感染症」という物差しにより日本史を見てみると新しい視点が広がる。

「歴史は単なる過去の記録ではありません。日常生活で生かすことのできる教訓の宝庫です」

主に歴史学・経済学・建築学の本を並行して読んでいるが、歴史の本は一気に読める。今更ながら道を誤ったかなと思う今日この頃。

神無月

いつもの夜のウォーキング。

ふと金木犀の香りがした。

秋だな。

見上げると金木犀の向こうに明るい満月。

ああ、今夜は中秋の名月だ。

俳人ならここで一句、

歌人ならここで一首詠むのだろうに