この小説では、長屋王政権と藤原四子を扱っている。藤原不比等の4人の息子とは武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)である。
藤原不比等が死去した後に政権首班となった長屋王(ながやおう)。長屋王の権力基盤は、高市(たけち)皇子と御名部(みなべ)親王(元明の同母姉)との間に生まれた子であること。吉備(きび)内親王(草壁皇子と元明との子、元正天皇の同母妹)の夫であるということ。それから藤原不比等二女の長我子(ながこ)の夫であるという、三つの血筋によるもの。
長屋王は藤原不比等の存命中は、その枠内において能力を発揮していたが、元明天皇が死去して首(おびと)皇子が即位し、聖武(しょうむ)天皇となるにつれ権力が揺らいでくる。
神亀六年(天平元年、729年)2月10日、長屋王の「謀反」に関する密告が行われ12日窮問の結果、長屋王は自尽(ジジン・自分で自分の命を絶つこと)、その他は自経(縊死)。当時も今もこの長屋王の「謀反」は、誣告(ぶこく)であったと言う可能性が濃厚だ。それは藤原不比等二女の長我子所生の安宿王、黄文王、山背王、教勝などは不問とされていることから、この事件の標的がどこにあったか、この事件を策謀したものが誰であったかを示している。
長屋王の変は、歴史教科書をさらつと眺めただけではわからない。この小説では長屋王の立場、藤原四子のそれぞれの立場と考え方にまで踏み込んだ創作となつており興味深い。
それにしても藤原不比等の業績は偉大である。律令国家を完成させ、律令天皇制(および太上天皇制)を確立し、藤原氏の舗政を永続化させる基礎を固めている。
日本の権力行使の有様、意思決定システムの様相、地位継承に関する構造など「この国のかたち」を作ったのは藤原不比等と持統天皇だったと言える。