
「内木家」は、岐阜県中津川市加子母にある江戸時代に尾張藩の「御山守」を代々務めてきた家で、日記をはじめとする三万点におよぶ史料が、今なお同家には残されている。
2025年3月に特別に内部を見せていただいた。

徳川林政史研究所の発行しているブックレット『御山守の仕事と森林コントロール』と題された報告書には、内木家が取り組んできた森林の育成や管理の実践について具体的に解説されている。樹木の成長には長い期間が必要であり、人々によって適切に手入れされることによって健全な森林は育成される。森林管理の最前線にいた内木家をはじめとする先人たちの知恵や努力によって、江戸時代の森林が健全に維持されてきたことが理解できる。

「内木家は美濃国(濃州) 恵那郡加子母村(現・岐阜県中津川市)を開いた、いわゆる〝草くさ分わけ百姓〟の由緒をもち、元和元年(一六一五)に同村が尾張藩領となってから一〇〇年余りの間、歴代にわたって同村の庄屋をつ7とめた家です。享保一五年(一七三〇)からは、庄屋にかわって「三浦・三ヶ村御山守」という藩の役職を代々つとめるようになりました。
三浦・三ヶ村御山守とは、尾張藩のもとで、信濃国(信州)筑摩郡王滝村の三浦山( 飛驒〈飛州〉・信濃・美濃の国境に位置)と、美濃国恵那郡加子母村・付知村・川上村(いずれも現・岐阜県中津川市)の山々を管理した役職です。一口に山といっても、藩の直轄地や村人の所持地など、さまざまあってややこしいのですが、御山守が主に管理したのは、「御山」「御林」と呼ばれる藩の直轄地でした。後でくわしく述べるように、尾張藩は、江戸時代にあった多くの藩のなかでも、とりわけ森林の保護・育成に力を入れた藩でした。」とある。

また『山村の人・家・つきあい─江戸時代の“かしも生活”①─』と題したブックレットには、「江戸時代中期における加子母村の生活を、当主内木彦七の日記をもとに具体的に見ていく。江戸中期の加子母村では、内木彦七をはじめとする人々がお互いに支え合い、緩やかながらも活き活きとした暮らしを営んでいた。その様子は、現代社会において希薄になりつつある人と人とのつながりを私たちに再認識させ、真に豊かな生活を送るうえでのヒントを提供してくれているように思える。」とある。このブックレットも中々興味深かった。

こうして林業に関わってきた先人たちの残した資料を見ると、苗木から材木となるまで何十年もかかるからか、物の考えた方のスパンが長い。出会った加子母の現代の人々には「志」や「気概」を感じた。