公長斎小菅

京都三条に移動して、1898年創業の老舗創作竹芸品メーカー

公長齋小菅(こうちょうさいこすげ)へ

 東京の飲食店でバターナイフとして使っていた、この微妙にひねられた「さじべら」に婆ちゃんが惚れ込み、お店でどこの商品なのか聞いて、いつか購入しようと思っていた。ネットでも買えるが本店によりたいとのことで行った。

 様々な竹製品が並んでいて、目移りした。

直接 商品を見て買うのが一番だ。 

 かなり昔にこんな素材をひねった文具を見たことがあったような気がしていた。ようやくわかったのがこれ。エンツォ・マーリのペーパーナイフ。「アメランダ」と名付けられた美しい曲面の作品。1962年ステンレス製。いまでも結構人気があるとのこと。

ブランドはDANESE(ダネーゼ)

進々堂 京大北門前

京大本部構内を南北に歩いて「進々堂 京大北門前」へ行く

1930年創業、京大生の第2図書室ともいわれている

京都で現役最古の喫茶店

創業時に若干26歳だった木工家・黒田辰秋が依頼され製作した一枚板の大机と長椅子は、100年近く経つ今でも健在だった。内部写真は撮影不可

「島津三国志」井川香四郎 著

3月初旬の九州出張前後に読んだ本

 西郷隆盛ら幕末の薩摩藩士たちが尊敬・崇拝していただけでなく、現在でも鹿児島の人たちに愛される戦国時代の猛将として名高い島津義弘。

 信長、秀吉、家康たちが台頭していくなか、鎌倉時代から続く島津家を存続させるだけでなく、九州平定を目指した島津義弘と兄弟たちを描く長篇歴史小説です。

 島津義弘を中心に、島津四兄弟のそれぞれの魅力が壮大なスケールで描かれています。

 薩摩が海から世界に向かって開かれていて、琉球、明など東アジア諸国とその先の南蛮へと繋がっていく世界観が新鮮。中央から見たら南の果てだが、世界と繋がる地だったということをあらためて知った。

 島津義弘は、自分が生かされ、後家か繁栄しているのは、先祖のお陰だと改めて感謝し、仏教に深く帰依した。そうして統治、教育、殖産興業という三本柱を立てて、家臣や領民を教化する目標を立てた。殖産興業には、琉球や明との交易も含まれている。そして外城制度を堅牢なものにした。祖父である日新斎や父である島津貴久が打ち立てたものだが、徳川幕藩体制なかで生き延びるために再構築されている。

 島津家に忠実な一族郎党と直臣だけで外城を固め、外城を衆中(しゅうじゅう)という半士半農というもの達が守る。その衆中を取りまとめるのが地頭である。この外城は110以上あったと書かれている。

 薩摩では古来より「門割制度」があり、島津義弘が強化したとある。小作がばらばらに農地を耕すことなく「門」とか、それより小さい単位の「屋敷」という組織単位で生産を高めていた。そして耕地を数年で入れ替えることで貧富の差を少なくして、収穫も安定させていた。過去に学んだ合理的な法治国家を目指していたように思える。

 その教育論「二才噺格式定目」(にせばなしかくしきじょうもく)も興味深い。江戸時代中期には「郷中」として組織的に確立していく。

 知らず知らずのうちに、中央史観で毒されてしまっていることに気を付けなければならないと思った。

 こういうを大河ドラマにすると面白いと思った。

鹿児島カテドラル ザビエル記念聖堂

設計は坂倉建築研究所

 この聖堂は、その名前が示すように、主として二つの目的で建てられたそうです。カトリック鹿児島司教区のカテドラル(司教座聖堂)であること、日本にキリストの福音を初めてもたらしたザビエル渡来の記念碑。

 高さ31メートルの鐘楼に吊るされた鐘は「ザビエルの鐘」と呼ばれているそうです。
正午、夕刻6時に鳴り響き、信者を「お告げの祈り」(アンジェラス)に誘うのだそうです。

 車で移動の途中だつたので、内部に入りませんでした。惜しいことをしたな、またゆっくり見てみたいと思っています。

 第一番目の聖堂は、1908年献堂で石造り聖堂だったとあります。1945年に空襲で焼失し、第二番目の聖堂は1949年献堂で木造。現在の聖堂は、1999年献堂でコンクリート聖堂ですが、築27年経過しています。打ち放しコンクリートの状態は良いように見えました。

ラーメン小金太@鹿児島

並んでいるかもと言われながらも行ってみた「ラーメン小金太」

客の入れ替えで、並ばずにカウンターに着席

チャーシュー麺・豚骨醤油味だけど、

スープはあっさりしていて麺が美味しい。

鹿児島で氷白熊の次に印象に残った食べ物

鹿児島を去る時に、駅ビルでお土産に買ってきた

小炒飯

こちらは、私が食べた 普通の鹿児島ラーメン

マルヤガーデンズ -2

【屋上】

改修設計者のみかんぐみのサイトには、「この建物を様々な人たちが集まる活気あふれる場所として再生するために、目的をもたずに訪れられる「ガーデン」と呼ばれるコミュニティのためのスペースを各階に設けた。」とある

改修設計者である、みかんぐみのサイトには「ストックとしての再生を試み、耐震改修と既存建物を最大限活かしながら、スケルトンに近い状態とした。また、避難安全検証法を用いて、階段を整理し、増築をせずに売場面積を増床させている。また、ESCO事業と組んで空調設備の更新を行なった。照明はほとんどをLEDとし、電力消費量を改修前の約1/2に減らした。」とある。

マルヤガーデンズ -1

鹿児島市内のテナント型商業施設・マルヤガーデンズ

壁面緑化とコーナー部のカーテンウォールは改修時に付加された

【エントランス部分】

 1961年に丸屋デパート開業。三越との業務提携を経て 三越鹿児島店として営業したのち、2009年(平成21年)5月、三越鹿児島店が閉店すると、丸屋が建物の大規模なリノベーションを施し、2010年(平成22年)4月28日にマルヤガーデンズがオープンした。

 2016年度にかけて大幅リニューアルされ、鹿児島初出店となるロフトなどが入居した。2020年(令和2年)秋には無印良品が再出店している。淳久堂書店、無印良品、ロフト等著名なチェーン店が入居しており、雑貨が中心の商業ビルとなっている。

岩崎美術館・工芸館 -3

工芸館

美術館側

美術館と工芸館との連結部分・工芸館側

内部は基本撮影禁止

 岩崎美術館・工芸館は、とても収蔵作品が豊かだ。19世紀末以降のフランス絵画や現代の外国作家の絵画、並びに郷土や日本作家の油彩画や日本画、それに墨書等を収集・ 展示している。黒田清輝、藤島武二の作品は貴重。桜島をモチーフにした絵画のコーナーもある。

 美術館と工芸館の2つの建物は地下通路でつながっており地上では2棟別々の建物に見える。外観は明瞭な幾何学な形態で水平垂直の力強いラインと、繊細な鉄骨フレームが対比する。

 修繕が行われ新築時の雰囲気が復活した。コンクリートの打ち放しに白の塗装を施した外壁は時の経過を感じさせながらも、強い太陽の光、青い空や海、深い植物の緑にくっきりと浮かび上がる。

 建物全体のレイアウトはなだらかな丘になった地形を活かすことによって、海側の工芸館を少し低いレベルに抑え存在感を和らげている。

 美術館内部も緩やかな地形がそのまま活かされたスキップフロアで空間がつながり、その中にマッキントッシュやコルビジェの椅子が置かれている。

 自然の地形あって成しえる空間構成であり、設計着手時に現場を訪れた槙文彦氏は九州電力の高所作業車に乗り込み、上空から辺りを見渡し美術館の配置を決めたとの事だった。

 自然の光が差し込むホール、壁に組み込まれた暖炉、まぶしい光があふれるテラスなどがそのまま展示空間となり、地中海のヴィラをイメージしたとの槙氏が語る通り有機的空間となっている。

 工芸館においては海の見えるラウンジ、テラスとつながる談話空間があり、大自然を感じながら芸術と触れることが出来る。

 とても手入れが行き届いた美術館で、建築と収蔵品の質、維持管理の徹底とバランスの取れた秀でた建築だと思った。

 南のはてにある建築物だが、多くの槇ファンが訪れるそうだ。私もその一人で、半世紀かかって来ることができ、とても満ち足りている。

岩崎美術館・工芸館 -2

手前が工芸館で、後ろに見えるのが美術館

背後の建物はホテルで閉館している

工芸館のエントランスだが、

現在は美術館の地階から地下道で工芸館に行く

木製小幅板型枠による、コンクリート打ち放しの表情が柔らかい

打放合板や鋼製型枠によるプレーンなコンクリートの表情との違い

岩崎美術館・工芸館 -1

鹿児島市から足を伸ばし指宿の岩崎美術館・工芸館を見てきました

1975年に財団法人岩崎美術館が設立され、事業家岩崎與八郎氏所蔵の美術品71点が寄贈された。その後も多くの美術品の収集が行われ、1977年3月槙総合計画事務所(代表 槙文彦)に設計監理を依頼し、1979 年3月に岩崎美術館は竣工した。

また、1983年1月に管理棟別館を増築し、同年4月27日に岩崎美術館は開館した。

その後、1987年3月に岩崎美術館の創設者岩崎與八郎氏の芳江夫人の遺志により工芸品、民芸品を展示する岩崎芳江工芸館を増築した。

3期に渡る工事の設計監理は槙総合計画事務所(代表 槙文彦)で、構造設計は美術館が木村俊彦構造設計事務所、工芸館は花輪紀昭建築構造設計事務所、施工はいずれも株式会社間組である。

鹿児島・鹿児島中央駅

名古屋から博多を経由して鹿児島に入りました

博多から九州新幹線で鹿児島中央駅に

大屋根の広場があります

鹿児島は暖かく、気温は20度を超えていたのではないでしょうか

もう春です

着てきたコートを自宅に送って身軽になりました。

 駅の上になんで観覧車と、最初は思っていたが、色々な場所から、この観覧車が見えランドマークになっていて駅と自分の場所との位置関係が分かりやすかった

「重源」伊藤ていじ 著

 恩師・伊藤ていじの小説である。1994年(平成6年)初版。30年ほど前の本だ。

 恩師の書いた小説だから、当然新刊で買い少し読んだが、当時は中世史の素養がなくて歯がたたなく、少し読んだところで放置していた。やがて家に溢れる本は段ボールに仕舞われ、当時借りていたコンテナに移動されていたが、水害の影響を受け、最下部の段ボールは水浸しになった。この本もその被害にあい、仕方なく廃棄した。

 「先生この本、小説というか研究論文だよ」なんて言ったら、師にあの世から叱責されそうだが、とても読みづらい本なのだ。

 昨秋に中古で買い求め30年ぶりに読み始めたら、あれから中世史の素養ができたのか、わりあい読み進めれた。ただし分厚い本で漢字・漢字で埋め尽くされているので、数ページずつしか読み進まなかった。

重源の生きていた時代は、源平の戦争の時代で、政治的・社会的転換期だった。その中で決して聖僧とは言えない重源が、幾多の反発を押しのけて東大寺の造営を成し遂げたことは驚愕な出来事である。先生は、「そうした中で生きる彼を支えていた人生哲学。洞察力と管理能力。そして途方もない体力。私はそれに惚れ込み、同時にその中に現代の反映を見た。」と書く。

 重源の作善はあまりにも多いが、先生は「そこで私は想像した。彼が手にしたかったのは、常に右往左往しながら自らの存在を確かめ、『時の流れ(道程)』のなかで、人間として充実した人生を持ちたかっただけのことでなかったのか。」と書いている。

 とても蘊蓄(うんちく)のある言葉を残してくれている。

 「親孝行したいときには、親はおらず」「師の教えに報いたいときは、師はおらず」せめて若い人達、次世代の人達の手助けをすることで御返しとしたい。

「黒牢城」米澤穂信 著

第166回直木賞、第12回山田風太郎賞を受賞した米澤穂信(ほのぶ)氏の「黒牢城」。

歴史・ミステリー・軍事・思想を融合させた、ミステリーを超えたミステリーと言える作品。村重と官兵衛の二人の推理戦の展開は見事。

荒木摂津守村重が織田信長に反旗を翻した理由も、立て籠もった有岡城を出て一人尼崎城に移動した理由さえ、歴史上の謎なのに、その訳(わけ)にも踏み込んでいる。

読者を戦術、戦略、政治、哲学と深淵なる世界に導いてくれる。

2026年に公開される映画「黒牢城」どんな脚本で、どんな映画に仕上がってくるのか、いまから楽しみ。

「黒田辰秋・千年の椅子」丸山茂樹 著

 引き続き黒田辰秋に関する本の紹介

 黒田辰秋が20歳のころ河井寛治郎の家で柳宗悦にあってから、上賀茂民芸協団の設立に至る経緯と活動の状況について詳しく知ることができた。

 京都の中でも好きな上賀茂の風景が描写されている。西賀茂の神光院や光悦寺のあたり、昭和2年の春。その頃はまだ京都市ではなく愛宕郡の時代だ。

 昨日、若い時に下賀茂神社の巫女さんのバイトをしていたという人と会っていたので、上賀茂の風景と、この本の記述がオーバーラップして、書いておきたくなった。

 上賀茂民芸協団は、濱田庄司が見てきたイギリスのデッチリング・コモンという集落に影響を受けたことが書かれている。

 デツチリング・コモンは、広場を囲った十二、三棟の家屋が整然と建ち、その周囲は果樹園や牧草地に囲まれ、敷地の奥にレンガ造りのチャペルがある。「ギルはさ、すべての人々が、それぞれ特別の芸術家で、そして働くこと自体が、喜びに満ちた行為であるべきだなんだ。」「物を作る営みと信仰は一体なんだ」と濱田庄司は益子でデッチリングのような暮らしを目標にしたいと。

 柳宗悦が濱田の言葉に被せるように「一人でやると、どうしても独断におちいる。自意識の超過にわざわいされる。それから逃れるためには、力をあわせる環境のもとで、生活を浄めることが大事だと思うんだ。濱田が見てきたことは、民芸の将来的な在り方を、暗示していると俺は思っている」 民芸運動の目指していた理想的なビジョンがここに示されていると感じた。

 黒田辰秋は、「付知の田舎生活でわかつたのは、都会との適度な距離の良さだ。日常生活の猥雑さを、いつのまにか溶かして、恬淡(ていたん)とさせる秘力が山里にはある」というところは、とても同感。

 ※恬淡(ていたん)・・・欲が無く、物事に執着しないこと

 「分業に甘んじるなら職人だ。作家を目指すなら、一から十まで自分でやりゃなきゃな」という黒田辰秋が語ったというところも記憶に残る。

「神楽坂『和可菜』」ばんせい総合研究所

 東京神楽坂・石畳の路地、兵庫横丁にあった旅館「和可菜」は、10年前ほどに廃業したと聞いていたが、このほど再生工事が終わっていたというのを、この本で知った。

 旅館「和可菜」は、昭和から平成にかけて多くの作家がカンヅメになる「本書き旅館」として有名で、山田洋次監督は年の1/3ぐらい、この旅館で寅さんの「男はつらいよ」シリーズを書いておられたそうだ。

 2015年に閉館し、その後7年間かけて再生の道程を歩んだそうだ。詳しくは隈事務所の下記のサイトをご覧いただきたい。

https://kkaa.co.jp/project/kagurazaka-wakana-renovation

この本は、一種の写真集で、再生に対しては出来るだけ当時の姿を維持するように努められている。外壁、塀、門扉など傷んだ部分も新しく更新されている。

 技術的なことは あまり書かれていないが、工事を担当した石間工務店の功績大だなと思う。

 誰が関わったかによれ、古い建物が保存再生されるのは喜ばしい。

「黒田辰秋 木工の先達に学ぶ」早川謙之輔 著

 この本も黒田辰秋に関する本。

 近年は、木や木工に関することがマイブームで、ひとりの人について関係する本を幾つか読むことにしている。この本は、2000年5月に発行された本だから、もう25年も前の本だし、著者の早川謙之輔さんは、既に故人。

 帯には「現代の名工が偉大な先達から学んだ木の心、木の技」。黒田辰秋との出会い、黒澤明御殿場山荘の家具セット製作など、その20年余の熱い交流を描いている。

 黒田辰秋は、若き日に河井寛次郎に出会い、柳宗悦らの民芸運動に加わり、若手芸術家のギルドのような上加茂民芸協団を組織したことは知られている。

 私が民芸に興味を持ったのは、1970年代の半ば頃だったか、新宿歌舞伎町の入り口に「民芸茶房 レストランすずや」という飲食店があり、民芸が趣味だった店主の鈴木喜一郎さんのコレクションが沢山飾ってあった。

 棟方志功の版画を初めて見たのも「すずや」だったかも知れない。婆ちゃんと新宿3丁目のジャズ喫茶「DUG」で待ち合わせして、時々「すずや」に食べに行った思い出が蘇る。

 版画家の棟方志功は、「すずや」の看板やメニューの表紙を直筆で書いているし、当時の民芸運動の中心だった柳宗悦、浜田庄司、芦沢圭介、池田三四郎、バーナード・リーチなど、後となっては人間国宝級の人々が店に通っていたという。さながら民芸運動の美術館のような飲食店だった。その時から有名なのは「とんかつ茶漬け」だが、当時は「とんかつ茶漬け」以外のメニューも沢山あった。

 「すずや」は、2016年にビルを建て替えて新しく「とんかつ茶漬け」と「とんかつ」専門店のような店になったが、新店は昔の民芸茶屋の面影は大分薄い。

 さて私の民芸との接点は置いておいて、

 早川謙之輔さんは、以前も「ゴッホの椅子」の本の紹介で書いたように、岐阜県中津川市付知というところで工房を持たれていたが、黒田辰秋は黒澤明御殿場山荘の家具セット製作の時に付知に滞在し、同じ付知の「上見屋」という老舗旅館を定宿にしていたことや、付知(つけち)の風景、山や木のことなどが書かれていて、とても親近感を抱いた本だった。

 

「改訂・建築 設計 製図-住吉の長屋・屋久島の家・東大阪の家に学ぶ」

 最近の大学では、建築の設計・製図の教材として、どんな本、どんな建物をお手本にしているのか興味がてら読んでみた。

 私の学生時代は、烏口からロットリングへの移行期で、T定規から平行定規への移行期。ようするにアナログの時代だが、今は授業にCADやCGも取り入れているのだろうか。

 安藤忠雄、堀部安嗣、岸和郎の手掛けた住宅をお手本にしている。その作図方法、表現方法について、丁寧でまとまった解説が加えられている。執筆しているのは、主に関西の大学で教えている人達だが、関東の大学では、どのような建物を教材にしているのだろうか。

 教材の選択は時代の反映だが、学生には後々まで影響を与えるものだ。

 私の学生時代の住宅設計の教材は、吉村順三先生の軽井沢の別荘(増築前)。平面詳細図のコピードローイング、断面パース、模型と1年間同じ建物と向き合った。軽井沢の別荘は二度程見に行って、一度は吉村順三先生夫妻がたまたま在宅の時で、ゼミの仲間と内部を隅々まで見せていただき、紅茶と菓子までいただいた記憶がよみがえる。もう半世紀も前の話。

 集合住宅は、代官山のヒルサイドテラス第1期の平面図・立面図等のコピードローイング。これは都内だったので、何度見に行ったか分からないぐらい通った。

 安藤忠雄さんの講演に行ったのは 確か大学4年の頃で、住吉の長屋が学会賞を受賞した後だったように記憶している。確かに名作といえば名作だし私も好きだが、住むのはちょつと抵抗がある。昔の農家住宅にあるような外便所で、寒くても暑くても雨の日も、一度外部に出る必要がある無断熱の家だから、住んだら家族からブーイングだろうな。まあ性能面は度外視しないといけないかもしれない。

 昔話をしても仕方がないが、学生時代にどのような建物で学ぶかによって記憶に刻まれ、その後の設計に影響するものだ。と 自分の事を振りえつて思う。