「後藤新平・日本の羅針盤となった男」山岡純一郎著

昨今の新型肺炎の拡大で、以前読んだ この本を思い出し書棚から探してきた。

この本は、付箋紙だらけになっているから実に学ぶことが多かつた本なのだが、後藤新平が陸軍次官だった児玉源太郎の命を受けて担当した日清戦争後の検疫事業について書き出してみる。

日清戦争の戦地では伝染病が流行した。広島は、日清戦争の大本営(臨時首都)が置かれた。1895年(明治28年)3月から同年11月つまり戦争末期から終戦後兵士が凱旋して以降にかけて広島県内で3,910人(死者2,957人)うち広島市内1,308人のコレラ患者が発生したとある。
また当時大本営参謀総長である有栖川宮熾仁親王が広島で発症した腸チフスで1895年1月薨去し指揮にも影響した。

明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰した後藤新平は広島沖の「似島(にのしま)」検疫所を作った。その他に彦島検疫所(下関市彦島)・桜島検疫所(大阪市桜島)も整備指揮を行った。

似島検疫所は、敷地面積2万3千坪、消毒部14棟、停留者舎24棟、避病院16棟、さらに事務所、兵舎、倉庫、炊事場、トイレ等、棟者以外に火葬場と汚物焼却場を造り機能させた。病院と消毒工場が合体したような世界最大級の検疫施設だったと書かれている。似島では最高1日4千人の検疫がされた。

検疫所開設までに与えられた時間は当初は3ヶ月間だったが、2ヶ月の不眠不休の突貫工事で完成させた。後藤新平の凄さは施設建設のハード面だけでなく、その運用ソフト面でもイニシアチブを発揮したことである。

検疫業務は凱旋兵を載せた輸送船が沖合に見えたところから始まる。沖に停めた船に検査官が乗り込み、伝染病患者や死者の有無を臨検する。患者は運搬船で避病院、遺体は屍室に送り船内の消毒を行う。健康な兵員は検疫所で20分間の淋浴し消毒する。衣類や携行品は熱気消毒、薬物消毒される。停留の日数は5日、その間に発病者出れば隔離し、さらに4日停留日数が延長される。

検疫を通過した人数は23万2346人。検疫船舶数687隻、そのうち患者を乗せてきた船は258隻。真性コレラ患者369人。疑似コレラ313人。腸チフス126人。赤痢179人。痘瘡9人と記録されている。

明治28年(1895年)は、全国でコレラ患者5万5144人。4万154人が死亡している。やはり日清戦争がコレラを流行させたといえる。ただ その5年前は平時でありながら3万5227人がコレラで死亡している事から、後藤新平が指導力を発揮した大検疫事業が行われなかったら、どれだけ死亡者が拡大したことか。翌年からコレラ死者数は数百人台に激減しているところから、入国する外国船の検疫を徹底的に行えるようになったことが要因だと指摘されている。似島・彦島・桜島の検疫事業は その後の成功モデルになった。

後藤新平は、行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長だった児玉に評価され、児玉が第4代台湾総督になると台湾民政局長に抜擢されるのであった。

さて120数年前に世界から絶賛された検疫事業に学ぶことなく、迷走する日本の防疫対策のもとで新型肺炎は市中感染の段階に移った。あらためて日本の政治家や官僚には「人」がいなくなったのかなと思う。