「日本植民地建築論」西澤泰彦著

2020年最後に読み終えたのが「日本植民地建築論」西澤泰彦著。帯あるように、2009年、日本建築学会賞論文賞を受賞した研究書。

日本近代建築史の空白部分と言われていた日本帝国の植民地支配により生まれた近代建築を体系的に展望し、各地域における建築史的位置づけの基礎データが提供されている。また建築が植民地支配に果たした役割を余す所なく描き出しており日本近代建築史の巨大な欠落を埋め、初めて本格的な歴史的評価を示した労作。

西澤さんの研究視点は、建築活動や建築物の特徴を明確にするために、少なくとも建築計画・用途・機能、建築構造・材料・技術、建築様式・意匠という建築の基本的要素である「用・強・美」に依拠した複数の視点を立てている。それが他の建築史研究者とは異なり建築史に重層的な深みを与えてくれる。

日本の近代建築法制の研究分野でも欠落していた、あるいは意図的に無視されていた植民地の建築規制、台湾・朝鮮・満洲等の建築法制について植民地の建築活動の中で詳細に記載されている。

以前、西澤さんの「日本の植民地建築~帝国に築かれたネットワーク」を読んだが、この「日本植民地建築論」は、それより1年ほど前に出版された論文賞対象となった本で、より詳細なデーターが記載されている。

https://taf2012.sakura.ne.jp/wp/?p=6436

2020年新型コロナウイルス感染により晴耕雨読の日々が増え、「建築法制と衛生」という視点で本を読むことが多かった。最近は台湾の建築法制を主に勉強していた。台湾では1900年(明治33年)の「台湾家屋建築規則」、「台湾家屋建築規則施行規則」が本土と比べても早く法制化されている。建築物の耐火・不燃化と建築の衛生水準の確保という二つの命題を統一した総合的な法令で、日本国内の各種法令に先んじて格段に整備された法令だった。

台湾に防疫や衛生管理を根付かせて伝染病の撲滅に貢献したのは、日本統治時代の1898年に台湾総督府で民生長官を務めた医師出身の後藤新平だ。それから120年以上がたち日本は感染症の流行対策について台湾に学ばなければならない立場に逆転している。

「工手学校・日本の近代建築を支えた建築家の系譜・工学院大学」

明治、帝国大学総長であった渡邊洪基は、建築家の辰野金吾や土木を専門とする古市公威と共に、8つの学科を擁する「工手学校」を設立し日本の建築界に多くの卒業生を輩出しました。

 本書は、工学院大学建築学部同窓会誌『NICHE』に掲載された「輝かしき先輩たち」と題された連載を基に再編集したもので日本の近代建築を支えた工手学校の歩みを、13人の建築家の歩みを通して描かれています。
同窓生だからこの本を持ち上げるわけではなく、日本の近代建築史を学ぶ上での貴重な資料です。とりわけ私が興味深く読んだのは戦前の台湾の活動でした。「戦前期工手学校卒業生の台湾における活動-八坂志賀助を事例として」「工手学校卒業生と台湾総督府の土地調査事業」「飯田豊二と日本統治時代初期の台湾鉄道」「進藤熊之助と日本統治時代初期の台湾鉄道」の四編は、今は資料が少ない戦前の台湾について多くの教示を得ました。
それと 今亡き建築家・内井昭蔵さんの御父さん・内井進さんが同窓だ初めて知りました。
とても面白い本です。

自由学園明日館公開講座「文化財建造物の修理について-考え方と方法-」-1

【写真は、明日館の2階食堂】

1/7(土)、今日は自由学園明日館公開講座「文化財建造物の修理について-考え方と方法-」に出席してきました。講師は文建協の田村匠氏。

「文建協」正式名称は「公益財団法人文化財建造物保存技術協会」という名前で、文化財建造物である社寺仏閣、民家、近代建築、近代化遺産の維持修理、根本修理、構造補強(耐震補強)の為に設計監理及び技術指導を行っています。

講師は現在、自由学園明日館講堂の屋根葺替、耐震補強等の部分修理を担当されています。

今日は、講師が担当された近世の社寺仏閣から民家までの事例紹介と修理の考え方について概括的な講義でした。2月には現在修理工事中の明日館講堂の見学が組み込まれているそうですが、実はそれが楽しみで講座に申し込みました。

【写真は、2階食堂(ミニミュージアム)から1階ホール(喫茶室)】

「文建協」の場合、文化財建造物が対象ですから近世から近代の建物、歴史的に古いものから新しいものに対象が移っているんですね。確か私の学生時代には、近世民家の調査など断られていたように記憶しています。

私が調査に関わっているのは現代建築から近代建築という、新しいものから古いものへのアプローチですから「文建協」さんとは、真逆のアプローチになります。

ミシェル・フーコーの「系譜学的な思考」では、歴史を「過去から未来に向かって、原因と結果の連鎖として、一方的に進むもの」としてとらえるのではなくて、現在から過去に向かって遡行するかたちで理解する思考訓練と書かれています。

上の文は、内田樹さんの本からの引用なんですけど、歴史ものを扱っていると実際様々な出来事には、その前に幾つもの分岐点があったことがわかります。幾つもの分岐点の中の一つの分岐点が選択されたから、現在の結果が生じているわけです。どうしてあの時この道が選ばれ、それ以外の道は選ばれなかったのか。なぜこの出来事が起きて、あの出来事は起きなかったのかという問いに沢山直面します。

どんなことがあっても存在し続けるものと、わずかの手違いで消え去ってしまうものを識別する能力は、「系譜学的な思考」で歴史を学ぶことから養われますが、この能力=想像力は現代を生きる上で、歴史的建造物を扱うものとして、とても大事だと私は考えています。

そういったことを思い出しながら公開講座を聞いていました。

【写真は、旧帝国ホテルで使用されていたタイル】

自由学園明日館公開講座「日本近代住宅史」-2

自由学園明日館公開講座「近代日本住宅史」の2回目の講座は、同潤会の江古田木造分譲住宅(30戸)の中で唯一現存している国登録有形文化財・佐々木邸の見学会でした。

今回の見学会での写真撮影は自由でしたが、ネット(ブログ・SNSなど)では公開しないという約束になっていますので、代わりに日大芸術学部の写真を掲載します。

参加者32人が4班にわかれ、神奈川大学の内田青蔵先生や佐々木邸保存会の能登路先生らの説明を受けながら建物の内外を見させていただきました。

建物は内外部の細部にわたり意匠が施されており、中々見応えがありました。

コンクリートの基礎の高さが400mm、広縁床から地面まで600mmありました。

市街地建築物法施行細則(大正9)では、第17条で「居室の床の高さは一尺五寸以上」とあります。又第19条で居室の採光面積は1/10以上という規定がありますが、これらは充分確保されているようです。

もうすでに行われているのかどうか聞き忘れてしまいましたが小屋組み・基礎(床下)調査をしてみたいという思いに駆られました。

基礎に設けられた床下通気口が幅600mmと広めで効果的な位置に配置されていました。

洋間の天井高は、一番高い部分で床から2730mm、客間などの和室天井高は2570mmありました。

台所は復元されたと聞きましたが、流し台の幅で広い出窓があり、開口部も高さがあるので明るくて使いやすそうに思えました。

戦前の住宅では、よく「日光室」という名称が出てくることが多いのですが、当時結核は、太陽の陽にあたると良いと言われていたらしくサンルーム、広い広縁、日光室というのを住宅に取り入れることが流行だったというのは、新しい知見でした。

尚、佐々木邸について詳しく知りたい方は、『受け継がれる住まい :住居の保存と再生法』住総研「受け継がれる住まい」調査研究委員会 編著、柏書房、2016年刊の中で紹介されていますので、読んでみてください。

内田青蔵(神奈川大学教授)、小林秀樹(千葉大学大学院教授)、祐成保志(東京大学大学院准教授)、松本暢子(大妻女子大学教授)の各先生が執筆されています。

同潤会の勤人向分譲住宅事業 -1

自由学園明日館公開講座「近代住宅史」で知りえた同潤会の勤人向分譲住宅と当時の建築法である市街地建築物法施行規則について調べてみました。

今度、昭和8年に建てられた江古田分譲住宅(30戸)の現存する住居を見学させてもらう予定なので、その予習みたいなものです。

なんと築83年の住宅ですね。残っていてくれてありがとう。感謝、感謝です。

既に神奈川大学の内田青蔵教授の研究などで発表されていますが、一次資料にあたる主義なので、まず昭和17年に発刊された「同潤会18年史」の勤人向け分譲住宅に関連する部分だけ読んでみました。

昭和3年に横浜市斎藤分町及び山手町に30戸、昭和4年東京市赤羽及び阿佐ヶ谷に30戸の分譲住宅を建設し、公募したところ「一般中産階級の異常なる歓迎を受け、希望者殺到して数十倍の多さに達する状況であった」と書かれています。

同潤会の勤人向分譲住宅は、東京、神奈川に合計20ヶ所、524戸建設されますが、昭和13年に「日支事変の影響を受け資材難に災害せられ、一時中止するの止むなきに至ったのである。」と書かれています。

東京市江古田及び横浜市斎藤分は土地付き分譲建売住宅、その他の18ヶ所は借地でしたが、借地年限は大体20年を標準としていて建物の返済が終わるとき借地の権利義務も同時に譲受人に移動することになっていたようです。

「同潤会18年史」には、この事業の平面計画、配置、付帯設備についての特徴が文章で書かれていますが、言葉だけでは理解しずらいので、この事業の分譲住宅を紹介している本を見つけたので読んでみました。

「便利な家の新築集」(婦人之友社刊・1936年・昭和11年)の中に「中流向け同潤会の分譲住宅」として昭和8年に竣工した大田区雪ヶ谷の一住宅が紹介されています。

敷地は約120坪、建坪35坪で将来の増築を考慮した配置になっています。

基礎の高さが地上1尺2寸(360mm)とあります。市街地建築物法施行規則(大正9)第17条には、居室の床高は一尺五寸以上(450mm)とありますが、その頃の主流は掘っ立て柱型式ですから、基礎の立ち上がりをコンクリート系にしているのは先進的だと思います。当時、基礎の高さは法的な規定はありませんから、かなりグレードの高い、戦後の住宅金融公庫の融資基準につながる設計方針だと思います。

その他、住まう人に寄り添った細やかな配慮ある設計が散りばめられています。

「押入れの床は、湿気を防ぐために、二重の板張りにして、その板と板との間に、フェルトを入れてあります。」「台所の天井のすぐ下には、湿気脱きの小窓を設けています」「台所の出窓を大きく取ってあるのは、台所の中を明るくするためにも、空気を乾燥させるためにも、また、洗い物を乾かす棚として使用するためにも、非常に便利」(流し台の給水栓先に出窓をとらず、流し台に対して90度の位置に出窓を取っています)等々

この雪ヶ谷分譲住宅の中の建坪31坪の場合、15年返済すれば自分のものなると書かれています。ちなみに当時の貨幣価値は良くわかりませんが、住宅料+借地料+経費で毎月36円弱の返済です。

2016年12月17日に神奈川大学の内田青蔵先生から御教授いただきましたところ、昭和9年大卒銀行員の初任給が月70円だそうです。ただ今の大卒と戦前の大卒では、その社会的地位がだいぶ異なります。また昭和7年の板橋区にあった賃貸住宅(3室)の家賃は月12円だったそうです。

自由学園明日館公開講座「日本近代住宅史」-1

今日は、自由学園明日館公開講座「日本近代住宅史」の1回目の講義でした。

講師は、神奈川大学の内田青蔵教授。

題目は「同潤会の住宅 1 -アパートメント・ハウス事業を中心に-」

同潤会については断片的な知識しかなかったので、設立の事業目的や内容を系統的に知りえることができ、とても有意義でした。

とりわけ同潤会以前の東京市の公的集合住宅の存在や、普通住宅事業としての戸建て住宅分譲は、新たに知りえた知見でした。

建築法制という側面だけで近代日本の歴史を追いかけていると視界が狭くなるので、全体像を把握するために時々内田青蔵先生のような建築史家の講義を聴くと新鮮な知見を得ることができます。

講義は満員御礼。

一時間半の講義予定が、ほぼ二時間になり、それでも話が足りない熱のこもった講義でした。

今回は、特別に夕方4時から講義だったので帰る頃には真っ暗でした。

夜の明日館は、室内外とも見たことが無かったので、かえって遅くの講義時間で良かったです。とりわけ夜間の室内の照明は、雰囲気がありとてもよかったです。

今度、ナイトツアーが月に一回程度あるようなので来てみたいと思います。

第二回目の講義は、現存している同潤会の戸建て分譲住宅の見学会で、今から楽しみにしています。

写真は、受付

季刊大林・№13「長屋」

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現在の集合住宅の原型は、江戸時代の長屋ですが、明治時代になっても、その形態は継承されたと言われています。

明治期の建築法制では、長屋建築条例が各地につくられています。その「長屋建築条例」を全国各地から収集し比較分析した先覚者の研究も見られます。

深川江戸資料館の常設展示室では、天保年間(1830年~1844年)の深川佐賀町の街並みの一部(5世帯)を想定再現していますが、規模が小さい為か何となく雰囲気はわかるものの今一つです。東京では現存していませんが、大阪には現存し改修して今でも使われている長屋があるそうです。

深川江戸資料館の展示でも参考にしたのが、この『季刊大林・№13「長屋」』です。

この1982年に発表された『季刊大林・№13「長屋」』は、とても先駆的な研究であり、江戸と大阪の長屋の比較がされているうえに、長屋の平面図と立面図が再現されているため全貌が掴める内容になっています。

「長屋」は、社会的システムつまり法で規制するというのは、古くて新しいテーマです。

「長屋」は、共同住宅の一形態であるのに 何故 現代の建築基準法では「特殊建築物」と定義されなかったか。建築基準法では定義がなく、各地の解釈にゆだねられたのはどうしてか。今なお、各地で紛争を起こす「重層長屋」や接道の問題は、なかなか厄介です。

明治のころから「長屋」の防火性・衛生は、社会的問題だったということが分かる貴重な本です。

「湾生回帰」

戦前の日本統治下(侵略地)であった台湾で生まれ育ち、戦後日本に引き揚げた人を「湾生」と呼ぶことを知りました。このドキュメタリー映画「湾生回帰」のことも台湾の植民地時代の人々の暮らしぶりを調べているうちに出会いました。

「侵略地建築」のあらましを理解する上で、その当時の生活を知ることは大切なことだと思っています。

例えば湾生である岡部茂さんは下記のように語っています。

「私は、大正7年(1918年)、台北市大正町で生まれ、台北一中を卒業するまで大正町4条(現在の長安東路付近)で過ごし、卒業から引き揚げまでは御成町4丁目(現在の中山北路2段、南京西路付近)で過ごしました。
父が当初、建設関係の仕事をしていたことから、新たに区画整理された住宅地の大正町で、今でいうモデルハウスのような家に住んでいました。上下水道完備、床は基本的に畳ではなくコルク、台風などの水害に備えて少し床高に設計、水洗トイレに収納付きと、大変ぜいたくな造りでした。
その後、御成町に移りましたが、住宅兼職場の岡部印刷は、もともと台北帝大医学専門学校の学寮を利用したもので、相撲の土俵やテニスコートがありました。近所には、台拓(台湾拓殖株式会社)の社長の家や辜振甫(台湾初の貴族院勅選議員・辜顕栄の長男。対中交渉窓口機関・海峡交流基金会の初代理事長)の家、米国領事館などがありました。」

湾生・岡部茂

日本本土と比べても都市インフラが整備され、中間所得層の豊かな暮らしぶりがうかがい知れます。

同じく湾生の川平朝清さんは、下記のように当時の台湾の建物の印象を語っています。

「私は、昭和2年(1927年)、台中の明治町7丁目4番地に生まれました。当時、そこは刑務所の近くで、沖縄から台湾に移った父母らは、そこの刑務所のクラブで仕事をしていました。ただ、私が物心ついた頃には、明治町の6丁目に移っていて、家の近くには台中地方法院(裁判所)があって、その建物が白く大きかった記憶があります。一番印象深いのは、台中公園にあった建物の大きな屋根です。
その後、5歳の時に台北の錦町に移り、旭尋常小学校、今の東門国小に通いました。
今年1月上旬に、台中の法院の跡と、台北の自宅跡地を訪れましたが、前者は、まだ建物が残っており、後者は、すでに別の大きなビルが建っていました。一方、台中公園の、あの大きな屋根も残っていました。」

湾生・川平朝清

川平さんは、ジョン・カビラさんのお父さんです。

こうして、映像や証言によって 建築が建てられた当時の人々の暮らしが重ねられ、現存している歴史的建築物にいのちが吹き込まれます。

「日本の植民地建築~帝国に築かれたネットワーク」西澤泰彦著

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2009年に日本建築学会論文賞を受賞された、現名古屋大学教授である西澤泰彦さんの本です。戦前、日本帝国の拡大・侵略・統治とともに東アジアに広がった植民地(朝鮮・中国・台湾)には、日本の近代建築から忘れ去られた建築群がありました。

西澤さんは、建築が植民地支配に果たした役割を余すところなく描き出すとともに、近代日本建築史の欠落を埋め、初めて本格的な歴史的評価を示した人です。

この本では、台湾総督府・朝鮮総督府・関東都督府・満鉄・満洲国政府の建築組織とそれぞれのネットワークを明らかにしています。

また植民地建築を支えた建築材料~煉瓦・セメント・鉄に焦点をあて、これら材料の確保の実情を明らかにしています。植民地経済の実態に迫るもので非常に興味深い論考でした。

台湾では、1900年(明治33年)の「台湾家屋建築規則」、「台湾家屋建築規則施行規則」が本土と比べても早く法制化されていますが、それは都市化が急速に進んだという事を示しています。

台湾では、本土より早く普及した鉄筋コンクリート造の建物が普及し、建築後10年程経過して柱、梁の亀裂が入りコンクリートの剥離や脱落が見られるようになり、台湾総督府の栗山技師が調査・研究にあたったと書かれています。その結果を1933年1月刊行の「台湾建築会誌」に「鉄筋コンクリート内の鉄筋の腐食とその実例」という論文にしたと紹介されています。それが日本国内でも注目を集め、台湾で起きた問題は日本国内でも将来起こりえる問題として捉えられ、1936年8月には当時の鉄筋コンクリート造構造の権威であった東京帝国大学教授の濱田稔と日本大学教授の小野薫が台湾を訪問し、被害実態の把握と原因の考究をしたとし、その内容を紹介されていますが、現在につながる鉄筋コンクリートの耐久性の問題は、とても面白かったです。

台湾でいち早く普及した鉄筋コンクリート造は、問題が表出するのも早く、台湾総督府の技師たちは対応策も考えられたにもかかわらず、その蓄積された技術が十分に日本国内の建築技術には生かされなかったようです。

西澤さんは「建築はもっとも雄弁に時代を語る存在である」という村松貞次郎さんの言葉を掲げています。建築を語ることは、その時代を語ることであり、歴史を語ることにつながるという視点はとても大事だと思いました。

先駆的な建築法令「家作建方条目」

外国人居留地は、政府が外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域だが、近代日本では、1858年の日米修好通商条約など欧米5ヶ国との条約により、開港場に居留地を設置することが決められ、条約改正により1899年に廃止されるまで存続した。
横浜港は1859年7月4日に正式開港し、まず山下町を中心とする山下居留地が造られ、1867年には南側に山手居留地が増設された。
横浜居留地
医師でアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師デュアン・シモンズ(1834年~1889年)は、1859年11月に開港まもない横浜に上陸した。翌年宣教師を辞しているが、辞任後も日本に留まり、医療と医学教育に力を注いだ。
シモンズは、横浜には船が来るから海上防疫をやれとか、便所は井戸の近くにあってはいけないとか、いろいろ提案している。日本政府はもちろん横浜でも衛生局というのをつくって予防をしなくてはいけないと建言している。いわゆる公衆衛生を推奨した。
シモンズの提言等を受けて、明治5年7月神奈川県県令になっていた大江卓(1847年~1921年)は、「家作建方条目」を作る。
シモンズや近代的ヒューマニズムの先駆者であった大江卓無しには、この「家作建方条目」制定はありえません。
先駆的な建築法令であった「家作建方条目」
明治6年に制定された、この「家作建方条目」の冒頭に適用範囲として「当港内外」とあるので、横浜港付近にだけ施行したもので神奈川県全体に適用されたものではない。又明治19年以降他の地方都市で制令化されたものが「長屋」に限定されたものだったが、全ての建物に適用している。
第1条は、外壁を耐火性能又は防火性能にしなさいという趣旨。
第2条は、屋根の不燃化。板屋根・杉皮葺・藁葺の禁止。発見した場合は除去・罰金刑
第3条は、場所により、表の道路に面しない裏に借家を建てることを禁止。
第4条は、便所と井戸は近くに作ることを禁止。
第5条は、工事中の検査の規定(中間検査)。
第6条は、「カマド」は石造・煉瓦造・塗屋にする。
第7条は、床高は2尺以上・貸長屋を含む。
第8条は、流しから下水の途中に金網をつけ塵芥を下水に流さない。
第9条は、下水は土中に埋込、往来の下水に取り付ける。
第10条は、地面内に不浄水の溜場を作ることを禁止。
第11条は、軒先は道路・敷地境界線より先に出さない。
文末尾に、竣工後の届出見分が規定されている。
制定時には、着工時のチェックがなく、第5条の中間検査と、末尾に竣工後の届出見分が規定されていた。
条目不達一か月後の8月19日に追加的不達が出て、「往来道路」に面する建物については着工前に図面を添えて許可を願い出ると規定されている。
さらに同年10月9日には、二回目の追加的不達が出て、第3条の裏貸家禁止を緩和している。
以上のように「家作建方条目」は、防火と衛生(下水)に関する規定が主で、当時の横浜の社会的状況を反映したものであったが、近代日本では先駆的な建築法規制であった。