福徳神社-2

芽吹稲荷(めぶきいなり)とも称されるらしいが、結構参拝者が多い

パワースポットと知られており、宝くじ当選を祈願する人が多いのだとか。

「創祀された時は明らかではありませんが、古くからの言い伝えによると貞観年間(清和天皇・859~876年)には既に鎮座していたと云われている。 鎮座地の日本橋室町二丁目付近は、往古は武蔵国豊島郡福徳村(あるいは豊島郡野口村福徳)と伝えられ、農漁家の点在する片田舎だったそうです。 古くは稲荷の祠と呼ばれていましたが、後にその村名をとって「福徳稲荷」と呼ばれました」というような由緒が書かれている。

関東大震災や、戦後の再開発などに伴う4度の遷座を経て、2014年(平成26年)に現社殿に至った。

薬祖神社

福徳の森

周辺の人々の憩いの場にもなっているようだ

右側の建物は、コレド室町1

福徳神社-1

日本橋室町三丁目にある福徳(ふくとく)神社に寄ってみた

日本橋大通りから東に入る小路の奥にある

上の提灯に「浮世小路」とあるが、これは「うきよしょうじ」と読むとのこと

 江戸時代、日本橋大通りの室町三丁目から東に入る奥行20間ほどの小路であり、突き当たりは伊勢町堀からの堀留だった。江戸中期以降には福留神社社務所周辺(現在)に有名な料理屋「百川楼」があった。
浮世小路を加賀言葉で「うきよしょうじ」とも読むのは、古くは加賀藩出身者が住んでいたことに由来しているとのこと。
「百川楼」は明治のはじめ頃まで営業を続けていた江戸屈指の料理屋で、落語「百川」の舞台にもなっていて幻の料理屋とも書かれている。また安政元年(1854)ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、一人前3両、総額1500両の料理で使節団をもてなしたとある。財政難に陥っていた幕末の江戸幕府から、果たして料金は回収できたのでしようか。

社務所の敷地の隅に、「百川楼」の事が記載されている銘板があった。