「変容する聖地 伊勢」ジョン・ブリーン編

 天照大神が祀られている内宮と豊受大神が祀られている外宮に代表される伊勢神宮は、古代から変わることなく受け継がれてきた聖域として語られることが多いが、不変的に聖地として崇(あが)められてきたわけではなかった。

 本書では、「聖地の変容」をキーワードに、伊勢神宮の歴史について、国内外の一線級の研究者16人がまとめた論考を、国際日本文化研究センターのジョン・ブリ-ン教授(現在は名誉教授)が集約している。2016年に初版が発行された本。

 現在の伊勢神宮では、「日本書記」の記載を字義通りに解釈して、神宮は崇神天皇の時代に創建が始まり、垂仁天皇の時代・紀元前4年に完成したとする。

 しかし考古学では天武天皇の時代に創立が位置づけられる。天武・持統天皇は「権力とは儀礼と宗教の是認がなければ正当性を欠くものだと理解し、みずからの起源を太陽神にもとめ、その神に関わる儀礼や神話を創出」されている。8世紀から9世紀にかけては、仏教を包摂し神宮寺も存在した。内宮・外宮そしてその上に大神宮司があり、結構複雑な権力関係が見え隠れする。内宮と外宮は古代から近世を経て明治維新前まで敵対関係にあり、何度も訴訟を起こし、ときには武力で戦う事もあったという。

 中世・鎌倉初期か室町末の時代。神官の神職たちは老いてから出家し伊勢の神々の為に法楽を行い、領地を寺院に寄進する敬虔な仏教徒たらんとする人もあり複雑な関係性が見られるとある。

 そもそも神宮とその祭神である天照大神は、古代より皇室と朝廷のみを守護する皇祖神であり、神宮の維持・管理や遷宮を含めた祭祀は朝廷の財源や力によって行われてきた。もともとは私弊禁断といい庶民の参拝や奉幣を受け入れるものではなかった。しかし中世になると庶民の参宮もみられるようになり、室町殿の参拝や僧尼の参拝や法楽も行われるようになったとある。そして江戸期には庶民参宮も一般的となった。

 中世に120~130年途絶えていた式年造営(内外宮で若干の差)を復活させたのは豊臣秀吉。皇祖神アマテラスを頂点とする神々の住居として唯一神明造の社殿があり、神々の日常を支えるものとして大量の神宝類がある。それらを定期的に更新することで、皇統譜の正統性や反復性が再認識される。その過程が正遷宮だとすると、120年以上正遷宮は必要とされなかったのか。それは朝廷に権力と財力がなかった時代とみるべきで、広義には国家的・社会的に必要とされなかったと考えるべきなのかもしれない。

 天正12年の小牧・長久手の戦いで徳川家康を軍事的に圧倒できなかった秀吉は、天正13年7月に関白となり、朝廷の権威を抱き込みながら覇権を及ぼす方途を選んだ。

 近世社会では、おびただしい数の人々が伊勢神宮に押し寄せたという「おかげ参り」があり、庶民の娯楽として享受された。

 外宮と内宮の間の地に、古市と言われている場所がある。江戸時代ここでは浄瑠璃芝居が演じられ、遊所があり、全盛期の1782年(天明2年)には、人家342軒、妓楼70軒、寺3ヶ所、大芝居2場、遊女約1000人の町だったと「伊勢古市参宮街道資料館」の略年表に書かれている。ところが明治、大正時代に廃れ、1945年の空襲によつて町並みの多くは焼失したとある。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、弥次さん喜多さんが、古市でドンチャン騒ぎをしたことが描かれている。

 しかし、明治政府が伊勢神宮を聖性の源としたことで、前近代の庶民のなじみのお伊勢さんとはまるで違うものになったとジョン・ブリーン氏は書く。

 このように歴史を振り返ると聖地・伊勢神宮は、各時代の政治的、経済的、社会的状況からの影響を常に受けている。

 神は人々に平等である。政治的に利用したり、初穂料によって御神楽の種類を変えるという格差を作るのは人間の側の操作であり神様に責任があるわけではない。

 丸山真男が神道と古代神話を日本文化やその歴史的言説を貫く「パッソ・オスティナート」つまり文化の「古層」と呼んだことを想起させる。

 時の権力によって様々に利用されようとも、伊勢は私にとって聖地であることに変わりない。