「湾生回帰」

戦前の日本統治下(侵略地)であった台湾で生まれ育ち、戦後日本に引き揚げた人を「湾生」と呼ぶことを知りました。このドキュメタリー映画「湾生回帰」のことも台湾の植民地時代の人々の暮らしぶりを調べているうちに出会いました。

「侵略地建築」のあらましを理解する上で、その当時の生活を知ることは大切なことだと思っています。

例えば湾生である岡部茂さんは下記のように語っています。

「私は、大正7年(1918年)、台北市大正町で生まれ、台北一中を卒業するまで大正町4条(現在の長安東路付近)で過ごし、卒業から引き揚げまでは御成町4丁目(現在の中山北路2段、南京西路付近)で過ごしました。
父が当初、建設関係の仕事をしていたことから、新たに区画整理された住宅地の大正町で、今でいうモデルハウスのような家に住んでいました。上下水道完備、床は基本的に畳ではなくコルク、台風などの水害に備えて少し床高に設計、水洗トイレに収納付きと、大変ぜいたくな造りでした。
その後、御成町に移りましたが、住宅兼職場の岡部印刷は、もともと台北帝大医学専門学校の学寮を利用したもので、相撲の土俵やテニスコートがありました。近所には、台拓(台湾拓殖株式会社)の社長の家や辜振甫(台湾初の貴族院勅選議員・辜顕栄の長男。対中交渉窓口機関・海峡交流基金会の初代理事長)の家、米国領事館などがありました。」

湾生・岡部茂

日本本土と比べても都市インフラが整備され、中間所得層の豊かな暮らしぶりがうかがい知れます。

同じく湾生の川平朝清さんは、下記のように当時の台湾の建物の印象を語っています。

「私は、昭和2年(1927年)、台中の明治町7丁目4番地に生まれました。当時、そこは刑務所の近くで、沖縄から台湾に移った父母らは、そこの刑務所のクラブで仕事をしていました。ただ、私が物心ついた頃には、明治町の6丁目に移っていて、家の近くには台中地方法院(裁判所)があって、その建物が白く大きかった記憶があります。一番印象深いのは、台中公園にあった建物の大きな屋根です。
その後、5歳の時に台北の錦町に移り、旭尋常小学校、今の東門国小に通いました。
今年1月上旬に、台中の法院の跡と、台北の自宅跡地を訪れましたが、前者は、まだ建物が残っており、後者は、すでに別の大きなビルが建っていました。一方、台中公園の、あの大きな屋根も残っていました。」

湾生・川平朝清

川平さんは、ジョン・カビラさんのお父さんです。

こうして、映像や証言によって 建築が建てられた当時の人々の暮らしが重ねられ、現存している歴史的建築物にいのちが吹き込まれます。