「成功」「造国」「知識結」

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【東大寺大仏殿に至る塀】

律令制度における造営・修理事業は、内裏は造宮省・修理職・木工寮が、寺院は造寺司が管轄して、諸国からの庸・調を財源として事業を行った。一方、神社の場合には造宮使が管轄して、神税を財源として事業を行っていた。

国家的規模の寺院や神社の建造・再建・修復には、たいていは「成功」(じょうごう)あるいは「造国」(ぞうこく)という制度がとられていた。

「成功」(じょうごう)とは朝廷の公事・行事及び殿舎の営繕、寺社の堂塔修造費用など本来、朝廷の公費で負担すべきところを、任官希望者を募って任料を納めさせるか、または自己負担でそれぞれの事業の功を成らせて、見返りに官職に叙任するという売官制度の一種である。

「造国」(ぞうこく)とは、平安時代中期から南北朝時代にかけて、内裏や寺社などの造営・修理の負担を割り当てられた国のこと。その責任者となった造国の国司(受領)を造国司(ぞうこくし)という。受領国司に財源をまかなわせ、国司は任国内の税物を加徴できるようになっている。これはうまくすれば収入の一部を私物化できるので、希望者も多かったようだ。

東大寺で思い出したことだが、重源は東大寺再建の時 国家予算で建築を主導したわけではない。

「知識結」(ちしきゆい)という方法である。

各所に「知識」(ちしき・智識とは、仏教の信者が善業を積み重ねるために寺院や仏像の建立や維持、写経や福祉などの事業のために金品などを寄進すること。また、寄進者や寄進物を指す場合もある。)を結び、これをネットワークする「勧進聖」を募り、これらを組みあげながらプロジェクトを進めるという方法である。そのリーダーを「大勧進」といった。大勧進は事業計画のすべてをまかされ、立案と予算の執行権をふるうことができ、知識物(これらは進退・進止とよばれた)を自由に差配することができるが、無報酬となる。

重源は東大寺再建を成した後「大和尚」の称号を与えられているから名誉と報酬は、後からついてきている。

「知識結」は、現代的に言うとNPOと言えるかもしれない。

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東大寺大仏殿 -3

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東大寺というと私は恩師・伊藤ていじが晩年に書いた小説・評伝「重源」を思い出す

先生が論文でなく小説を書いたと驚き、急ぎ買い求め

「重源」(新潮社刊)を読んだ記憶がある。

治承4年(1181年)、平家の南都焼き打ちで東大寺が燃えた。

その再建に法然が駆り出されようとしていたが、法然はたくみにこれをすりぬけた。
そこで無名の重源が造東大寺大勧進に抜擢されることになる

重源61歳のときである。

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国宝・金銅八角燈籠

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現在の大仏殿は江戸時代(元禄4年、1691年)に再建されたもので

正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m

「東大寺要録」の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、

幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、

高さ12丈6尺(約37m)、柱数84という

奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、

幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている

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仁王門

奈良県庁に車を止めていたので、仁王門には行かず

美術館 の脇を歩いて帰った

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桜の花弁が舞い落ちて

もう一度「重源」を読み直してみよう。

東大寺大仏殿 -1

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中門

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東大寺大仏殿に来たのは三度目

修学旅行のとき

大学生の時、このときは昭和の大修理中だった

そして今回

まだ桜の花が残っていた

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東楽門

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やっぱりデカいわ

それでも、これは1709年に再建された時のもので、

創建時の2/3に正面幅を縮小したものというから驚きだ

8世紀にこれだけのものを造れる技術があること自体スゴイ