民間の建設工事において、最初から予算を明示してくれる建築主は少ない。
その理由は幾つかある。第一に工事費がどの程度かかるか検討がつかない場合。第二に工事費は安ければ安いほど良いと考え、不用意に伝達するとその工事予定額が目安となり見積金額の最低ラインが決まる可能性があるという心理が建築主側に発生するからだと言われている。
しかし設計者の立場で言うと、建築主はベンツが欲しいのかカローラが欲しいのかを聞きださないと設計ができない。建物の計画内容とコストは相互に関係するので、いずれかを決めないと仕事は前に進まないからだ。
何とかクライアントから工事予算を聞き出しても、その額が書類上は残っていない事が多い。それが民間建築では慣例的なもので、特に問題はないと思っていた。
ところが工事予算額を文書上残しておかなかったために建築主に不利に働いた事例がある。
裁判は形式的で、証拠が支配する。
以前関わった訴訟案件で、建築主はある特殊用途で容積率限度一杯の建物を設計者に依頼したが、基本設計は難航し当初契約より半年以上遅れた。その後建設会社から当初予算の2倍近くの概算見積が提出され、その後仕様変更しても1.5倍程度にしかならず、建築主は他の要因も重なり設計者に対する不信感が募り設計契約を解除した。
建築主は、実質的に基本設計が完了していないにも関わらず、設計者にほぼ当初の契約日時で基本設計料を支払済みだった。基本設計が難航し設計期間が延長した為に経済的に困窮したと設計者に泣きつかれたから支払ったのだと建築主は言ったが、後々その善意が仇となった。
設計者(原告)は当初契約日時で基本設計は終了しているのだから、その後の契約解除までの期間は実施設計であるとして損害賠償請求を起こしてきた。
建築主(被告)が依頼した弁護士から訴訟チームに参加するよう依頼され関与したのだが、建築主(被告)は法人なので、当然役員会等で工事予算を承認した文書はあるのだが、建築主(被告)から設計者(原告)に工事予算を明示した文書は存在しなかった。ゆえに設計者は工事予算の明示はなかったと主張した。
そして延床面積あたりの工事金額ではなく施工床面積あたりの工事金額では、さほど乖離が無いと主張してきた。そもそも「延床面積」は建築基準法に則った算定方法であるが、「施工床面積」は算定根拠そのものがあいまいで基準はなく、いかようにもできる算定面積なのだから信頼性が薄いものだと思うのだが・・・。
最終的には、建築主(被告)が不利な形で和解となった。
その後、建設工事は別の建設会社により設計施工で進められ無事竣工した。
【この訴訟案件からの教訓は】
・工事予算額を設計者に対して文書上明示したものの必要性。
・基本設計が実質的に未了状態であったのに、当初契約日時で支払ってしまったことにより、形式的に基本設計は完了しているものと裁判官は考えたようだ。
・設計期間が大幅に遅延していたのにも関わらず、設計監理契約の日時等変更事務を行っていなかった事
・第三者として俯瞰すると、基本設計の難航と遅延は特殊用途の建築物に対する設計者の経験不足に起因している。設計者の選定に関わる問題。
・設計者(特にアトリエ系設計事務所)は、工事予算をコントロールする能力が低下している
・その他 諸々