古墳時代後期に最高権力者であった蘇我氏
幾たびも血で血を洗う戦いを経て
やがて乙巳の変(645年)に蘇我氏本宗家は滅びた
栄枯盛衰の理りと言おうか
ここには「滅び」を感じた。
玄室入口部
玄室内
玄室内にいるのは、あまり気持ちの良いものではない
蘇我蝦夷・蘇我入鹿に批判的な、入鹿の叔父にあたる蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)は
中大兄皇子(後の天智天皇)に味方したので
蘇我氏の血脈は、平安時代まではかろうじて続いたようだ。
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奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳
石舞台古墳に着くなり霰が降ってきた。
埋葬者は蘇我馬子というのが有力視されているが、
蘇我稲目の墓という説もあるらしい
長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、
その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。
蘇我馬子が埋葬者としたらその孫にあたる蘇我入鹿が
中大兄皇子(後の天智天皇)らに暗殺され
蘇我氏本宗家が滅びた「乙巳の変」(645年)の後
封土が剥がされ墓が暴かれたのは、
蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もあるが
ボランティアガイドさんから聞いたところによると
近くの農民が畑の土にした、
石棺の石は江戸時代に城の石垣に使われたと言っていた。
血脈が途切れる、墓守がいなくなるということは寂しいことだ。