100年後に残したい最強マンガ

 子供の頃から青春時代、そして概ね30歳代に見ていた漫画に、どんなのがあつたかなと思って検索してみたら、「100年後に残したい最強マンガはこれだ!!」といサイトを見つけた。

https://ebookjapan.yahoo.co.jp/content/genre/etc/meisaku100

 私は、概ね1950~1960年代の日本の漫画文化が創られた伝説の時代から、特に1980年代ぐらいまでに沢山の漫画を見ていた。特に記憶に残っている漫画を書いておこう。

 「鉄腕アトム」(手塚治虫)・・これはどちらかと言うとTVアニメ

 「火の鳥」(手塚治虫)・・全巻保存

 「鬼太郎大全集」(水木しげる)

 「巨人の星」(原作:梶原一騎原作、画:川崎のぼる)

 「ゴルゴ13」(さいとうたかお)

「明日のジョー」(原作:高森朝雄、画:ちばてつや)

「ドラえもん」(藤子・F・不二雄)

「三国志」(横山光輝)

 「キャプテン」(ちばあきお)

 「はだしのゲン」(中沢啓治)

 「ブラック・ジャック」(手塚治虫)・・全巻保存

 「包丁人味平」(原作:牛次郎、画:ビッグ錠)・・この漫画の影響で鮨職人になったとと言う人に時々出会う。

 「釣りキチ三平」(矢口高雄)

 「美味しんぼ」(作:雁屋哲、画:花咲アキラ)

 「課長島耕作」(弘兼 憲史)

 「ギャラリーフェイク」(細野不二彦)

 「サラリーマン金太郎」(本宮 ひろ志)

 「アドルフに告ぐ」(手塚治虫)・・全巻保存

 どんな漫画を見て、次世代に残しておきたいかというのは、生きてきた時代、年齢の違いなので、あまり意味がないと思うが備忘録的に書いてみた。

「アドルフに告ぐ」手塚治虫

もう随分と昔に見た漫画なのだけど、古本屋で見つけたので5巻セットで購入。

一晩で5巻全部読み終わった。

 正確には再読なのだが、最初に読んでから、あまりに月日が経過しているためか、何か新鮮というか、始めて読んだようにさえ思った。

 資料によるとこの漫画は、1983年1月6日から1985年5月30日まで、『週刊文春』(文藝春秋)に連載された。1986年(昭和61年)度、第10回講談社漫画賞一般部門受賞。

 第二次世界大戦前後の時代、ドイツと日本を舞台に、「アドルフ」というファーストネームを持つ3人の男達(アドルフ・ヒトラー、アドルフ・カウフマン、アドルフ・カミルの3人)を主軸とし「ヒトラーがユダヤ人の血を引く」という機密文書を巡って、2人のアドルフ少年の友情が巨大な歴史の流れに翻弄されていく様と様々な人物の数奇な人生を描いている。

 今なお 色褪せない、抜群のストーリー展開。

 ドイツ人とユダヤ人と日本人の織り成す、融和と衝突、理解と誤解、異和と差別は、今なお現代的なテーマでもある。

 こうした時間が経過しても作品評価が低下せず、尚且つ時代を超えた普遍的テーマを持っている漫画や本を子供や孫達の世代に残してあげたいと思っている。

 手塚治虫では、「ブラックジャック全巻」「火の鳥全巻」を持っているが、あと どんな漫画を古本屋で何を見つけてこようかな。

「山ばな 平八茶屋」

長崎から夜遅く京都に移動、翌日昼

京都洛北の老舗料亭「山ばな 平八茶屋」で会食

威風堂々たる「騎牛門」。

川端通りに面し、店のシンボル的存在。

山口県・萩の禅寺から移築してきたとされ、

築400年~500年と言われているそうです

若狭街道で400年以上の歴史をつなぐ名料亭
16世紀末、天正年間に若狭街道(鯖街道)沿いに立つ

街道茶屋として創業。

以来440年間、

京都・松ヶ崎の現在地で歴史を積み重ねてきた老舗料亭です。

御所から一里(約4㌔)の場所、山端(やまばな)。

旅人にとって、都に入る最初の茶屋であり、

都を出る最後の茶屋でもありました。

魚を運ぶ行商人が、ここで一息ついてかきこんでいったのは、

今なお名物である「麦飯とろろ汁」です。

玄関にそびえる騎牛門をくぐると、そこには木々が生い茂り、

季節の花が彩る庭園が広がります。

徐々に深い自然の中に入っていくような約600坪もの幽玄な空間は時間の経過を忘れさせるほどで、明治以降、夏目漱石や正岡子規、高浜虚子や北大路魯山人らが訪れました。「日常とは異なる非日常の空間、それが料理屋」

高野川のせせらぎ

座敷は全室、高野川(鴨川の上流)に臨み、

せせらぎの音も間近に聞こえる。

対岸の山は京都の夏の風物詩、五山送り火の「法」が灯される松ヶ崎東山

「土地は誰のものか‐人口減少時代の所有と利用」五十嵐敬喜 著

 今年、考え始めた社会問題として「空き家活用」の問題がある。地方に出かけると地方都市の市街地から、農村部に至るまで「空き家」「空きビル」「空きテナント」の現状を目の当たりにしていた。

 弊社の主力業務である「既存建築物の再生活用」として具体的にアクションを起こせる場合は、まだ恵まれている方で、ほとんどが放置されている。

 地価高騰・バブルから一転、空き家・空き地の増大へ真っ逆さまに落ちこんでいる日本。

 生存と生活の基盤である土地はどうなっていくのだろうか。

 この本は、近年続々と制改定された、土地基本法と相続など関連する個別法を解説するとともに、外国の土地政策も参照し、都市計画との関係や「現代総有」の考え方から解決策を探っている。

 この「現代総有」の概念は、弊社が現在取り組んでいる「空き家活用の実証的研究」のベースになった考え方だ。

「現代総有」とは、「個人の所有権は尊重するが、その利用は結束した共同体が主体となり共同で行う。」「現代総有とは、可能な地域で、また必要な地域で、地域住民を中心として取り組まれる「運動」でもある」

 弊社の「空き家活用の実証的研究」は、まもなくベースとなる基地ができる。この拠点をベースに実証的研究を更に進めたいと考えている。

「史跡料亭 花月」

11時の開店と同時に入店・会食

長崎の元丸山遊郭の随一の太夫屋「引田屋」の楼号で

引田屋本家が花月楼と呼ばれていたとある

この花月は、長崎県指定史跡

大広間の床柱の刀痕は、坂本龍馬が残したものと言われているそうです

大広間

長崎は、中華・南蛮の文化・料理を受け入れて変化してきた

今回、長崎に始めて行って軽いカルチャーショックを受けた。

また訪れてみたい。

「境界確認の困難要因と実務対応」鈴木泰介・内野篤 共編

 建築物と敷地・敷地境界にまつわる問題は多い。

 既存建築物の敷地面積に関わることで こんな事が以前あつた。新築時の建築確認済証では建蔽率は適合していた。土地の登記簿謄本を取り寄せてみたところ確認済証に記載されている敷地面積より少なかった。謄本上の敷地面積なら建蔽率は不適合。

 そこで、とりあえず敷地の四辺をテープで実測してみたところ、新築時の確認申請副本の配置図に記載されている辺の数値と、ほぼ同じだった。既存建物があったので斜辺は実測できなかった。計画の初期段階で測量士や土地家屋調査士に依頼する以前の段階だったので、自分で実測。

 なんで敷地面積が違うんだろうと思案して、作図をしてみたところ 何という事はない、新築時の配置図の三斜法の底辺と高さを書き換えていることが分かった。多分 建蔽率がオーバーするので、敷地面積を増やして建築確認済証を取得したものであろう。つまり設計者による虚偽の建築確認申請である。

 増築時の建築確認申請の際に配置図の数値を修正した。建蔽率はどうしたのかというと、準防火地域+準耐火構造で10%加算を利用し法適合化した。

 建築物の敷地は、不動産登記法上の筆に制約されることはなく、一筆の土地の一部を建物の敷地とすることもできるし、複数の筆を建物の敷地とすることもできる。

 また敷地境界線は、厳密に境界や所有権等の範囲を明示しているものではない。判例でも、隣地と境界不明などの紛争が生じていない場合、設計の受任者は一般的な範囲で敷地の調査・確定をする義務を負っていると考えられている。(東京地判昭50・2・20判時794・89)

 建築確認申請上の敷地面積は、依頼者からの指示等により敷地の現状を調査すれば足りるので、境界確定や厳密な測量をしていなくても良いのだが、悪意のある虚偽の図面に出くわすことは多々ある。

 敷地境界に関わることは土地家屋調査士に相談するば事足りるのだが、設計者も基本的な事は知っていた方が良い。

 別な事例で、敷地境界に関する問題が生じたので読んだ本。

出島和蘭商館跡

今回の長崎出張で観光地らしいところに寄ったといえば

「出島和蘭商館跡」

とっても暑い日でした。

真夏の観光は、年寄には負担です

ただ本州に比べて湿度は低く、

長崎は海に接しているために気温もさほど高くならないそうです

「ミニ出島」1976年に制作された15分の1の模型

川原慶賀「長崎出島之図」と案内板

一つ一つの建物をもっとゆっくりと見て回れれば良かった

V溝の排水溝

出島表門橋

「次世代への伝言・自然の本質と人間の生き方を語る」宮脇昭×池田武邦 対談

 国内外で土地本来の潜在自然植生の木群を中心に、その森を構成している多数の種類の樹種を混ぜて植樹する「混植・密植型植樹」を提唱し活動していた、生態学者の宮崎昭さんは2021年 (令和3年)に死去された。享年93歳。

 と

 2022年(令和4年)死去された建築家の池田武邦さん。享年98歳の対談集。

 2011年5月初版とあるから、お二人が亡くなられる10年ほど前に対談が行われたようだ。

 この本は邦久庵の2025年・夏の一般公開で訪れたとき、永野先生から紹介された本だったが、先に「軍艦『矢矧』海戦記/建築家・池田武邦の太平洋戦争」井川聡著を読んだので、池田武邦さんの原点については、ぼんやりと解り掛けていたので、宮崎昭さんとの植物についての対話もすんなりと受け止めることができた。

 終章の「Ⅳ、次世代への伝言」が特に記憶に残る

 「自然の摂理を敬い、従うこと」「物事を総合的に見る力を養う」「いのちは人間にはつくれない」「文明は普遍、文化は土着固有」「今、文化に根ざした行動が求められている「体で自然に触れる喜びから目も心も開かれていく」見出しを並べるだけでビビットくる。

 今年、裏木曽・加子母の神宮美林で檜の天然木を見て、自然に畏怖し、畏れ敬う気持ちを忘れてはならないと思った。それが日本文化の原点なのかもしれないと。一本一本の木に命があり、精霊が宿っていると感じた。老木と言うのは、人間の寿命よりずっと長いいのちを生きている。そのいのちを敬って、注連縄を張って神木としてきた。木は神様で、いのちは神様だという事を再認識することができた。

 ドイツ語では、文化はクルツール(Kultur)といい、文明を指すツィビリザチオン(ZiViisation)とは区別するとの事。クルツールとは土着のもので、その場所にしかないものというのは示唆的だった。

 自然を畏敬し、ふるさとの森や山、川、海と共生してるという実感覚。さらに海や山を敬う心が、日本人の心、魂なのだと思う。

 ようやくして私も 池田先生が指し示した境地にたどり着くことができたかもしれない。

てら小屋チーム・第21回WEB打合せ

 計画中、設計中のプロジェクトや秋以降の業務について進捗状況を共有した。

 出張から帰ってきて夏風邪をひき、準備ができなかったので、先月課題を出した実践的な演習課題についての発表と講評を行った。

 都内の検済無し住宅の上増築(おかぐら)に対するガイドライン調査、条例に基づく申請、増築確認申請、設計、工事監理の業務見積書の作成。工事金額に対する料率ではなく、人工計算を積み上げた報酬の見積書作成を課題とした。

 適切な調査項目、調査人工を把握しているか、設計粗利率をどのように設定するのか等、技術者として、また経営者として、設計見積書をどう作るかという課題。こうした実践的な課題は、それぞれの業務に役立っていくだろうと思う。

 ある演習課題提出者の感想「調査の項目や工事期間の想定、諸経費・粗利の考え方など色々と勉強になりました。他の設計事務所の方の設計見積を見たり、考え方を聞いたりする機会はこれまで無かったので、参考になりました。」

 

「軍艦『矢矧』海戦記/建築家・池田武邦の太平洋戦争」井川聡著

邦久庵を訪れるまで、池田武邦さんについて ほとんど知らなかった。

 今回の訪問で一般社団法人邦久庵倶楽部 代表理事で 東京大学都市デザイン研究室 助教の永野真義先生から邦久庵について解説をしてもらったが、その中で紹介された本は、「次世代の伝言・自然の本質と人間の生き方を語る」宮脇昭・池田武邦対談だった。

 出張中だったのでアマゾンで池田武邦さんの本を検索して、出張から帰るころに届いているように注文していた何冊かの本の一冊だった。

 そして最初の読み始めたのが「軍艦『矢矧』海戦記/建築家・池田武邦の太平洋戦争」

 まずは、池田さんの太平洋戦争を知りたいと思った。昭和15年の海軍兵学校入隊から「矢矧」航海士として、マリアナ海戦、レイテ沖海戦、そして沖縄海上特攻を経て21歳で終戦を迎える。海軍大尉で終戦を迎えた。

 この濃密な6年間あまりの苛烈な戦場体験には圧倒される。池田さんは あの戦争を語り継ぐために「生かされた」存在なのかもしれない。

 池田さんは、私の父の世代でもあり、若い時には名前は知っていても、雲の上のような存在だった。何しろ日本設計の社長でもあったし。関わっていた建物のレイヤーが違い過ぎていた。

 邦久庵は妻が偶然見つけ、邦久庵倶楽部に登録して、いつかは見に行きたいと思っていた建物だつた。丁度その頃、私達も終の棲家をどうするか考えているところだった。

 その偶然ともいえるきっかけから、邦久庵は様々な視座を提供してくれる。

 

邦久庵 -1

 「邦久庵」(ほうきゅうあん)は、、2001 年に建築家・池田武邦さんが長崎県の大村湾のほとりに結んだ終の住処です。

 今回、夏の一般公開に合わせて、初めて長崎市を訪ねました。

 日本初の超高層ビルを設計し、オランダ村やハウステンボスの設計も手がけた建築家が、自然と建物の関係を見つめ直した結果辿り着いたのは、茅葺き屋根の小さな庵。

大村湾の「 琵琶ノ首鼻」と呼ばれる小さな岬に建ち、九州の材だけを用いた伝統工法で建てられています。

湾に突き出したデッキからの眺めは素晴らしく、海の音を聞く時間は本当に贅沢でした。

長崎駅

7/4岐阜、7/5名古屋を経て夕方長崎に入りました

7/7午後に長崎を離れ、7/7夜、京都に移動

参議院選挙比例区の全国遊説のような西日本横断です

西九州新幹線の武雄温泉~長崎駅間

 全国一短い新幹線の開通に伴い駅前が再開発されたそうです

出島メッセ長崎

絶滅危惧種設計者集団

 ふと気が付くと、周りの実務を担っている人達は、電気も設備も構造も、そして私達も、みんな古希を過ぎている。仲間内の最高齢者は80歳になったという。

 しかし皆現役で図面を書いているし、計算し、打合せや現場確認、行政打合せをこなしていて とても元気だ。

 それでも集まれば 仕事をしていられるのは、あと5年ぐらいかなと話している。

 「若い人を育てなかった あんた達が悪い」とか「あんた達、年寄が若い者の邪魔をしているんだから、早く引退しろ」とか陰口を叩かれているが、皆 多くの仕事を抱えていて忙しい。

 建築業界は全ての分野で「実務ができる技術者」は不足していて、若い人たちには人気がないようだし、実務に習熟してくると、業界の川上に行き、末端の実務技術者にはならない。

 生活はできるけど、ベンツとかジャガーを買って乗り回す余力はなかったな。一部の建築デザイナーさんは、多分に見栄もありそうだけど、結構乗り回している人がいるのに。

 若い人には、実務ができる建築技術者が圧倒的に少なくなるから、これからの建築業界はブルーオーシャンだよと言っている。

 きちんと図面(絵ではない)を書くことが出来て、各種計算もこなせて、現場にも理解がある実務ができる技術者・建築士ならばねと。

ECI方式

ECI方式(ECIほうしき、英語: Early contractor involvement、アーリー・コントラクター・インボルブメント方式)あるいは先行発注型三者協定方式とは、主たる元請業者がプロジェクトの初期段階で関与して設計段階への意見を提供する建設契約の一種。

従来、設計段階の終わりになってから請負業者を参加させる設計-入札-施工方式(DBB方式)とは対照的。

このモデルにより、請負業者はスキームの設計に情報を提供し、バリューエンジニアリングの変更が提案可能となる。

弊社では、以前より既存建築物の活用に係る建築工事については、ある時期から建築主の了解を得て建築業者を選定し、プロジェクトの情報開示を行い色々な技術的提案を受けている。ただ規模が比較的小さかつた事もあり、プロジェクト建築工事会社として内定してから工事請負契約までの期間もさほど長くなく、検討業務もさほど過大なものでなかったので、その業務報酬は話題にもならなかったし実際発生する事もなかった。

弊社から工事会社を推薦しても、建築会社から一切のバックマージンを貰わない事を宣言している。あるいは特定の材料・構法等を指定し採用されたとしてもバックマージンをもらう事はない。そうすることで仕事を通じて親しくなっても工事金額の査定、チェックには厳密でいる事ができる。

現在進行形の既存建築物のプロジェクトでは、このECI方式で建築会社の書類選考を実施している最中である。

ところが要領を受け取った建築会社も、言葉は聞いたことがあっても、実際に経験した事がある人はいないようで、とりわけ上層部に戸惑いがあるようだ。勿論、弊社もECI方式に基づく本格的な業者選定は初めてで、役所の要領を書き換えて単純化したが、それでも固い固い書類になった感は否めない。メンゴ。

大規模でもあり工事仮設計画や安全計画、エスカレーターやエレベーターの早期発注もあり、またVEを含む工事費の調整なども勘案しECI方式を提案したのだが、「令和の時代」の大規模な既存建築物の工事発注方式では最も適切な方法なのではないかと思っている。

「日本木造遺産」藤森昭信(著)・藤原光政(写真)

 藤森照信氏が文章を、建築写真家の藤塚光政氏が写真を。プラス、それぞれの木造遺産について構造学の観点から、東京大学生産技術研究所の腰原教授がコラムを寄稿するという贅沢な本です。

 この本は、2019年から足かけ5年にわたる雑誌「家庭画報」の連載のうち32の木造遺産を雑誌とはまた異なる仕立てで再構成した本だそうです。

 既に見た建物も沢山あったが、この本を読みなおしてみると、気が付いていないことや、新しい知見が溢れていた。まだ見ていなかった建物もあり、探訪したい建物が増えた。

 「千年の時を超える知恵」が日本木造遺産には伝承されている。