カテゴリー: イタリア
ガララテーゼ集合住宅-1 Aldo Rossi + Calro Aymonino
ヴィラ・マラパルテ -4 / Adalberto Libera
ヴィラ・マラパルテ -3 / Adalberto Libera
ヴィラ・マラパルテ -2 / Adalberto Libera
ヴィラ・マラパルテ -1 / Adalberto Libera
作家でありジャーナリストでもあったクルツィオ・マラパルテ(1898-1957)の住宅。
マラパルテは、1922年のローマ進軍に参加したファシストでありながら、その後ファシズムに批判を向けた著作「クーデターの技術」を発表し、その為にバリ島で五年間の流刑を甘んじて受けることになる。
カプリ島の地中海を臨む高台に作れたこの住宅は、海に向う階段として構想されている。
カプリ港から小舟をチャーターし島をめぐり、この住宅の船着場からアプローチした。
陸路 この建物を探してたどり着いても門は閉ざされていると聞く。
1989年ナポリからカプリ島へ渡ったときの写真である。
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サンカタルド墓地 -2 / Aldo Rossi
サンカタルド墓地 -1 / Aldo Rossi
サンテリア幼稚園 / Giuseppe Terragni
写真に映っているひとの中には故人となった人もおり懐かしい
ジュゼッペ・テラーニが生きた時代は、ムッソリーニ政権下のイタリアファシズムの時代だった。
その中にあって、テラーニはモダニズム運動の旗手の一人として「<新しい体制>の表現としての建築」にその生涯を託した。
彼の作品はモダニズムの建築として、近代イタリアという枠を超えている点で高く評価されている。
インターナショナリズム(ラショナリズム)とナショナリズム。アヴァンギャルディズムとクラシシズム。
「大衆のための建築」と「国家の建築」といったアンヴィヴァレントなジレンマが含まれているという。そこにテラーニの悩み、自殺の要因が秘められているように思う。
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カサ・デル・ファッショ / Giuseppe Terragni
ジュゼッペ・テラーニの代表作とも言えるカサ・デル・ファッショは1936年の作品である。
邦訳すれば「ファシストの家」つまりイタリアファシスト党の地方事務所である。
訪れた当時は、税務署として使われていると聞いた記憶があったが、今回調べ直してみたら 現在の用途は、国境警備隊本部のようである。コモはスイス国境に近い。
コモを訪れた時は、「カサ・デル・ファッショはどこにありますか?」などとは聞かないことだ、怪訝な目で見られることは間違いない。自分もそういう目で見られた。
ジュゼッペ・テラーニは、ファシズム下のイタリアにあって建築集団の左翼を形成していたイタリア合理主義(ラショナリスト)達のひとりである。
「ファシズムとはガラスの家である」と言ったムッソリーニの命題に応えるべく造ったイタリアファシズム建築の代表作といえるだろう。
テラーニ自身がファスト党党員であり、従軍し、後に自ら命を絶った。
「なんだ 単なるモダニズムじゃないか」と言ってコピーする無かれ、心のこもらないコピーニストに真のモダニズム建築は造れない。
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戦没者慰霊碑 / Giuseppe Terragni
若い時 訪れたヨーロッパの建築と それにまつわる思い出を時々書き綴ってみようと思う。
昔のネガフィルムやビデオを、倉庫の段ボールの中でこのまま寝かし続けておくこともないだろう。今のところスライドやネガからデジタル化して掲載するので、画質や色調があまりよくない。
8mmビデオからデジタルへの変換も依頼してあるので、後ほどそちらの写真に差替えるかもしれない。
ともかく、いまなおそこにある有名建築もあるし、取り壊されてしまった建物もある。
昔の写真を見ると色々なことが思い起こされてくる。
まずは学生時代から好きな建築家 イタリアのジュゼッペ・テラーニから
これは、イタリア北部のコモ湖岸にある戦没者慰霊碑。
1989年に訪れた時の写真。
もう あれから25年経った。
アントニオ・サンテリアが死の二年前にスケッチした「灯台のスケッチ」(1914年)を、同じ未来主義者エンリコ・ブランボリーニが戦没者メモリアルとして転用する事を計画し、その後紆余曲折を経て1933年ジュゼッペ・テラーニの手によりサン・テリアの故郷であり、又 テラーニの主たる活躍の場であったコモの湖畔に建造された。(1931年~1933年)
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