カテゴリー: 【22】読書
NICHE 2017 vol.40
「NICHE」と「NICHEダイジェスト」は工学院大学建築同窓会誌ですが、2014年から建築とデザインの学際的な架け橋として、海外取材に基づく特集記事と連載 を中心とした業書・書籍版(有料)「NICHE」と広報誌「NICHEダイジェスト」に分かれています。
「NICHEダイジェスト」は、「NICHE」から抜粋した内容と大学に関係した記事で構成され同窓生や大学関係者に無料で配布されています。
2015年の「台湾建築探訪」2016年「フランス建築探訪」そして今号「ドイツ建築探訪」と、最近の内容は同窓会誌のレベルをはるかに超えていると言って良いと思います。
今号も
- ブルーノ・タウト再考
- バウハウスとその時代
- ドイツ派、妻木頼黄と矢部又吉
と興味深い特集記事が組まれています。
そして 亡き武藤章先生が1968年に設計された「工学院大学旧白樺寮」が閉鎖され解体される方針に対して、建築系同窓会が土地の借地権と建物を引き継ぎ、一部を減築し夏季利用に限定した、アールトと北欧デザインづくしの「白樺湖夏の家」として生まれ変わった様子が速報版として紹介されています。
学生時代に白樺寮に一度行ったことがありますが、約半分ぐらい減築し暖炉のあったリビングの部分を残してリノベーションした様子ですが、とても懐かしいですね。
武藤章先生の傑作・八王子図書館が解体されたのは残念ですが、白樺寮が保存出来て良かったです。関係者の皆さんありがとうごさいます。
「聖地巡礼 Rising 熊野紀行」内田樹×釈徹宗
日本の霊性を再生するシリーズの第2弾。熊野古道・熊野本宮大社・花の窟神社・那智の滝・・熊野にむき出しの宗教性を見る。
この正月に「聖地巡礼」シリーズは発行されている第1弾から第3弾まで一気に読みましたが、この「熊野紀行」について書き留めておくのが遅くなりました。
祖先は、一体いつの頃から「霊性」や「神」の存在を感じたのでしょうか。古代の人々にとって大自然の中で生きていくことは過酷だったと思います。大自然の脅威と恵は、古代人の心に「恐れ」と聖なるものへの「畏れ」(おそれ)を生み出します。
私達の祖先は、自然をも超越した完全無欠の「神」ではなく、自然の中に存在し、災害も恵も合わせ与える厳しくも温かい「神」を望みました。
自然が作り上げた神聖な場所は、全国各地に未だ多くありますが、この熊野はとりわけ濃厚な霊性を感じられる地だと言われています。
はるか古代から自然への信仰を飲み込み、それらを原点として神社神道へと展開していく熊野信仰は、六世紀に仏教が伝わると神仏習合が進み、「熊野権現信仰」が広まります。
熊野古道は、滅罪と救いを求めて難行を行う人々が開いた命の道です。古代や中世においては、今では想像も出来ないほど険しい山道だったに違いありません。それだけに宝前に辿りついた人々は皆 涙したと言います。以前サンティアゴ・デ・コンポステーラの道の巡礼の終点である大聖堂に着いたときも皆涙すると聞きました。
熊野古道とサンティアゴ・デ・コンポステーラの道の二つ道の巡礼を達成した人は「二つの道の巡礼者」と呼ばれます。
「日事連 2017・4」日本建築士事務所協会連合会
日事連4月号は、「木の魅力」の特集です。
「川下から川上へ・木材産地における構造変化」筑波大学生命環境系准教授・興梠克久(こうろきかつひさ)氏へのインタビューが読みごたえがありました。
2015年の国産材素材供給量は2004万9千㎥と、1997年以来18年ぶりに2000万㎥台に回復したそうですが、素材需要増加の要因について聞いています。
200年代以降の流通の合理化には、大きく分けて三つの傾向が見られるとあります。
1、商社が国産材に関わる事業に進出して来た。
2、原木市売市場の商社化
3、素材生産業者の取りまとめ団体の商社化
大資本である商社が、日本の木材市場の再編成を図ったことが最大の要因です。為替の変動(円安)から国産材へと軸足を移したことも大きいようです。
工務店や設計事務所が核となり、地域材を大消費地に供給する動きが全国各地にみられます。
岐阜県の中島工務店が「完結型林業」ということで紹介されています。
ヒノキ材の産地である岐阜県中津川加子母に所在する中島工務店は、工務店が川下流域の林業や製材業の中心となり、森林組合や製材所と共に協力体制を構築し、社寺仏閣から木造住宅まで幅広く手掛け、関東・中部・関西の大都市圏に建てています。
何となく農業の六次産業化の林業版というような感じを受けました。
加子母に一度行ってみたいと思っています。
特集では他に、地場材を使った地域の建築として奈良県の取組みや全国の地域材活用方針や取り組みが一覧表に整理され紹介されています。
「奈良の木」BOOK
「奈良の木」BOOK を頂戴しました。
発行は「奈良の木」マーケッティング協議会。奈良県南部の吉野地方の吉野材・吉野杉は、木目が美しく強度に優れている高級材として有名ですが、近年は製材生産高の低迷が続いているそうです。
奈良県産材の利用拡大を目指して、その魅力を伝えるための製材、奈良県産材を使った公共建築、民間の建物、小物、家具などを紹介しています。
「奈良県産材は、ヤング係数が高く強度性能が優れている」というのは始めて知りました。杉のヤング係数の全国平均値はE70ですが、奈良県産材の平均値はその1.3倍のE90と書かれています。
奈良県産材は年輪幅が狭く、密度が高い為ヤング係数も高くなっているようで、現在は一本一本ヤング係数を測定し強度等級を付けているそうです。
奈良県産スギ材を使った床材、不燃材開発、壁倍率2.6倍の大臣認定取得のスギ厚板耐力壁、スギ厚板床などの商品開発は興味深かったです。
コア東京3・2017 東京都建築士事務所協会
毎月、東京都建築士事務所協会「コア東京」と「日事連」が郵送されてきます。
定期機関誌を毎月発行するのは大変な労力がかかっているのだろうなと予想できます。関係者の皆様に感謝しながら、このカラー印刷の機関誌印刷代・郵送代に随分と経費がかかっているのだろうなWEBサイトを充実させれば事足りるのではないかと思いつつ「コア東京」をパラパラとめくりました。
今号の気になった記事は「VOICE from editor」の記事でした。ようするに巻末の編集後記ですね。加藤峯男さんの建築法規の変遷、ストック活用に即した法体系の見直しの思いが記載されていました。
そこには加藤峯男さんが一級建築士を受験した1970年の建築基準法法令集・赤本と現在2016年度版の赤本の厚さが比較された写真が掲載されていました。頁数で言うと5倍になっていると指摘されていました。
「建築基準法の基礎的規定や意味合い」を若い人が理解していないと加藤峯男さんが嘆くのはわかりますが、その一因は大学や専門学校での建築法規の履修が戦後一貫して軽視されてきたからだと思います。1970年頃も大学では建築法規は2単位で現在もほとんど2単位だと思います。社会が複雑化しそれに対応し法令もこれだけ増えてきたのに、資格受験のための建築法規の学習では試験が終われば忘れてしまいます。しかも試験技術が最重要な要素である現代の資格試験では建築法規の基本を学ぶことには無理があると思います。
やはり設計実務を通じて徐々に全体像が掴めてくるのだと思います。
指定確認検査機関に勤めて審査をしていれば建築基準法と関係規定には詳しくなりますが、建築プロジェクトの遂行においては消防法や都市計画法などのあまたある法令・条例を読み理解しなければなりません。
建築法規を学ぶとしたら、やはり大学教育の中で学ぶ時間を増やさないといけないのではないかと思います。そしてどういうカリキャラムが必要か、よく考えないといけないと思います。
加藤峯男さんは「既存ストックを円滑に活用できるように法体系を見直す」必要性を訴えていますが、建築関係者は大概思っているのではないでしょうか。
どう改善するべきか建築関係団体から具体的な提起が必要になっていると思います。
内閣府・規制改革会議での業界関係者の意見等を読んでますと「床面積1000㎡以下は用途変更確認申請は不要として欲しい」等の意見もみられますが、業界関係者の利便や都合ではなく建物を使用する人の安全性に配慮した建築法規の改正が必要だと思います。
私見としてはストック活用に伴う建築基準法改正案はありますので、いずれ発表する機会があるかもしれません。
省エネ適合も かれこれ10年前に話題になりました。施行は本年4月1日から随時実施され やがて300㎡以上の建物は省エネ適合が必要となるでしょう。
ストック活用の法令も見直されることは歴史的必然だと思います。
建築士事務所登録数は減少の一途
先日届いた日事連(一般社団法人・日本建築士事務所協会連合会)の2017・2月を読んでいたら、国土交通省から発表された建築士・建築士事務所の登録数が掲載されていました。
平成28年度上半期末一級建築士の登録数は、363,530人という総数のみ公表されています。一級建築士は年々総数は増えていくのですが、現在65歳以上で概ね15万台の登録番号ですから、現役の実数は20万人程度であまり変化はないのかもしれません。都道府県別、年齢別の登録状況が発表されれば、もっと詳しく動向がわかるのですが。
一方、一級建築士事務所の登録数は、平成28年度上半期末で個人・法人合計で78,334事務所で、平成27年度上半期の79,062事務所から728事務所の減少と記載されています。
建築士事務所の登録数は平成12年度をピークに減少の一途をたどっています。
この傾向をどう考えるかというのは諸論あるのですが、建築経済が縮小している。独立開業が難しくなっている・・・・というところが一般的でしょうか。
日事連加盟数が14,861事務所で、全登録事務所の14.1%しか加入していない。東京は加入率10.1%だそうです。
他の「士」業とは異なり任意加入だからか、あるいは存在意義が低いのか。
そう言えば建築士事務所協会に入ってから営業電話とカタログ、郵便物が多くなった。名簿が独り歩きするのは困ったものです。
「聖地巡礼 リターンズ 長崎、隠れキリシタンの里へ」内田樹×釈徹宗
この正月に読んだ、内田樹×釈徹宗の「聖地巡礼 リターンズ~長崎、隠れキリシタンの里へ」聖地巡礼シリーズの第三弾です。
「聖地」は、幾つかの類型に分けることができると書かれています。
1、その場が本来的に持つ特性による聖地
2、物語(ストーリー)による聖地
3、個人の経験や思い入れで成り立つ聖地
この第三弾の聖地巡礼で取り上げているキリシタンの足跡は、どちらかというと「物語による聖地」の傾向にあります。この地で繰りひろがれたキリシタンの関係の事件や逸話は、強い宗教性を帯びていて、とても重く心にのしかかります。
「信徒発見」(禁教後250年間信徒が潜伏)や「二十六聖人殉教」は、世界のカトリック教会でも歴史上名高い事件です。日本国内での評価以上にカトリックの中では評価が高いと聞いています。
私にとって長崎は どちらかと言うと避けていた土地です。
それは、いま映画が放映されている「沈黙-サイレンス-」の原作である遠藤周作の「沈黙」を若い時に読んだことに起因するかもしれません。読後は気がめいって、出来れば避けていたかったと思ったものでした。
1/21から放映された映画も、多分クオリティーが高くて良い作品だとは思いますが、面白いという性格の映画ではないのではないかと予想しています。
東京都建築士事務所協会のコア東京2017.1月号に、研修旅行「世界遺産と長崎の教会群を見る」の記事が掲載されていました。
長崎の教会建築は、様式は多様で、構造も木造、石造、鉄筋コンクリート造等多種にわたっていますが、建築の要素だけ取り出しても深く理解できない土地かと思います。
釈徹宗さんが、聖地を訪ね場合は、ロゴス、パトス、エトス(信仰や宗教体系が生み出した土地の生活様式や習慣)、トポス(場が持つ力)のこの四つをバランスよく感じ取ることが聖地巡礼の基本姿勢と書かれています。
他の事象から切り離し、建築・建築技術だけみることは 避けなければならないと再認識した次第です。
「土浦亀城と白い家」田中厚子著
この正月から「土浦亀城と白い家」田中厚子著、鹿島出版会刊を読んでいました。
「白い家」に代表されるているのは、現存する昭和10年竣工の土浦亀城と信子の建築家夫妻の自邸です。
土浦亀城邸は東京都有形文化財、docomomo20に選ばれていますが、傑作ですね、今見ても見劣りしない とても美しいデザインの住宅です。
戦前の木造住宅の構法、使用材料等もわかり、建築病理学的にも一級品の資料と言えます。
この本では、この土浦亀城邸と、土浦夫妻の生涯を丹念な文献調査や関係者からの聞き取りをもとに描き切っています。
歴史的な本を書くなら、縦糸は関係文献を余すことなく読み込み、横糸は出来るだけその時代の関係者から聞き取り調査をする。縦糸と横糸が折り重なって布となる。ちょつと中島みゆきの歌「糸」のようでもありますが、それが歴史的な本に厚みを持たせるのだと思います。
土浦夫妻はライトのもとで夫妻で師事し、日本で国際様式のデザインで建築を数多く作っていますが、その個人の歴史を描く中で、戦前のエリート知識人の暮らしぶりや、タリアセンで出会ったヴェルナー・モーザー、アントン・フェラー、リチャード・ノイトラ等の交流や戦前戦後の歴史が浮かび上がってきます。
近代建築史を学ぶ上では、必読的な本だと思います。
「今、ある良い建物を これからも使い続けていくために」
工学院大学校友会・新春の集い2017で工学院大学教授の後藤治教授から頂戴した「今、ある良い建物を これからも使い続けていくために」既存建物を使い続けていくための諸制度見直し研究会の発行です。
このJIA再生部会や東京弁護士会歴史的建造物部会が協力してできた冊子を読んでみました。
歴史的に価値ある建築物の多くは、相当の年数が経過している為に現在の諸法律に適合していません。建築物を長期間継続して使い続けていくためには、大規模な改修や用途変更等もときには必要になります。しかし現行の法的基準を満たそうとすると工事費が嵩んだり、場合によってはその歴史的価値さえ失ってしまうこともあります。
今、多くの歴史的建築物は、経済的合理性の御旗のもと解体を余儀なくされています。
一方、歴史的建築物を社会的資源と捉えなおし、用途変更・増築等をして活用する事例も増えています。廃校からホテル・結婚式場。事務所から飲食・物販店舗からなる商業施設。廃校から道の駅等 各地で事例は生まれています。
この冊子は、日本建築家協会(JIA)再生部会と東京弁護士会歴史的建造物部会で、技術的な面と法的な面から様々な検討を行い、建築基準法第3条1項3号「その他条令」の規定を運用し、建築基準法適用除外の条令制定を勧めています。またその事に役立たせる目的でまとめられています。
社会的システムという法整備も喫緊の課題ですけど、個人的には、それと両輪で建築病理学の体系化が求められていると思います。
「ゲニウス・ロキ~建築の現象学をめざして」クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ著
1994年に出版された「ゲニウス・ロキ~建築の現象学をめざして」。
昨年末に読んだ「聖地巡礼」内田樹×釈撤宗対談集の中で「霊的トポス」と言う言葉が出てきていたので、この本を所有しているのを思いだし抜粋的に読み直してみました。
建築関係の本は、しばらく倉庫に預けていたのですが、昨年末に借りていた倉庫を撤収し所有していた本を整理・処分した中で残した本の一冊でした。
ゲニウス・ロキとは「地霊」と邦訳されます。ラテン語のゲニウス (守護霊) とロキ (場所・土地) を合わせた言葉です。どの土地 (場所) にもそれぞれ特有の霊があるから,その霊の力に逆らわず建物を建てたり、地域開発をすべきだという考え方です。
鈴木博之先生の「東京の地霊(ゲニウスロキ)」が出版されたのは何時だったでしょうか。1990年にサントリー学芸賞・芸術・文学部門賞を受賞しているので初版はそれ以前でしょうか。あの時期、もう30年ぐらい前ですが、私のなかでは「ゲニウス・ロキ」は、建築行為の理論的支柱でした。設計コンペの時は、その土地の場所性とか歴史性を調べることにばかりに力が入り、未消化の時は、結局参加を断念したりと、やたらとスケッチと資料ばかり増える傾向にありました。
今はどうなんでしょうか、「場所性」とか「歴史性」とか重要視されているんでしょうかね。設計行為そのものとは少し距離を置いてしまったので よくわかりません。
尚、所蔵していた本が少々くたびれていたので、新しく買おうかなとamazonで調べたら中古で54,000円の値がついていてびっくりしました。
「聖地巡礼 ビギニング」内田樹×釈徹宗
思想家・武道家の内田樹さんと浄土真宗本願寺派・如来寺住職、相愛大学教授の釈撤宗さんの対談集ですが、どこか部屋の中で静止した状態で対談するのではなく、実際に聖地を巡礼し、つまりを移動しながら対談したものをまとめた珍しい形式の対談集です。
聖地巡礼プロジェクトの目的は、「霊的感受性を敏感にして霊的なものの切迫を触覚的に感じる事」と書かれています。つまり五感のレーダーを研ぎ澄まさなければならないのだと思います。
私にとって聖地巡礼と言えば、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼で、それを目指して、色々と資料を集めて準備していた時もありました。フランスからピレネー山脈を超えスペインを横断する巡礼路は、一か月以上かかり、最低でも徒歩で100Km以上歩かねばなりません。そんな体力はないからと、考古学的関心から日本の社寺仏閣を回り始めてしまい最大の目標から少し遠のいていますが、諦めたわけではありません。
しかし この本に書かれている日本の聖地巡礼も めちゃくちゃ行きたくなってしまいました。
この「聖地巡礼 ビギニング」の第一回は、ことし「真田丸」で有名になった「大阪・上町台地縦走」です。「かすかな霊性に耳をすませる」と添えられています。上町台地は南北に強い地脈を持ち、突端は生駒山と東西に一直線にあり、見える縦軸と心象的な横軸がクロスするという都市デザインが古代よりあったことを知りました。
内田樹さんが「大阪は本来霊的なセンターであり、それが都市としての力を賦活(活力を与える事)していたはずでしたけれど、世俗の力によって本来の霊的エネルギーが枯渇している」と書いています。大阪は、最も世俗的な人と政党に長く地方政治を担わせていますが現代的箱物やカジノでは復活は難しいでしょうね。
第二回は「京都・蓮台野と鳥辺野~異界への入口」です。「死者との交流」の地が京都の街の中にあったのは、まったく知りませんでした。これは、絶対行かねばならないと思いました。
第三回は「奈良・飛鳥地方~日本の子宮へ」で三輪山と大神神社です。「どの神社が一番好きか」と聞かれたら「大神神社」と答えていたので、「霊的トポス(場所)には透明感がある」というのは共感できました。私が今までで強い透明感を感じたのは大神神社と上高地でした。奈良は情念の南部、ロゴスの北部と言いますが、奈良南部は原日本の風景を感じるので大好きな土地です。
「出かけよう! 宗教性をみがく旅へ」
「立原道造の夢見た建築」種田元晴著
「今時、立原道造を取り上げて本にした人がいるんだ」という驚きと敬意をもって、この本を読んでみました。
『詩人・立原道造の建築家としての思想を解読。自然豊かに書かれた透視図から「田園」を志向する建築感を始めて浮かび上げさせる』との内容説明がされています。
立原道造についての著作は過去にも多く、全集も出ていますし、その中には図面やスケッチ、透視図の類も収集掲載されています。著者は学部卒論の時から立原道造を調べていて、関係者の本も丁寧に拾われて立原道造の世界を探求されていますが、全体の印象は、過去の著作類からの「よくできたトレース」という感じを受けました。
それでも全集を読んだことがない、詩人・立原道造を知らないという建築分野の方が立原道造に近づくための入門書としての完成度は高いと思います。
私は、中学生の時に立原道造の詩に出会いました。多感で純粋な中学生には衝撃的な詩でした。高校生に入り、すでに勤めていた姉に頼み「新建築」を定期購読し様々な建築や建築家の存在を知りました。その一方「詩作」に励んでいました。
私にとって立原道造は、初恋の人のようなものです。
憧れの人であり、手繰り寄せて思想を分析する事など思いもよりませんでした。立原道造の詩と建築は、一体不可分で分離して考えることは出来ないと思います。
立原道造は、誰よりも先に花開き、誰よりも早く散ってしまった花です。
わずか24歳。
戦争の時代を生き抜いたら、侵略戦争を賛美し国威発揚の戦争詩を書いていただろうか。田園主義を捨て古典主義的建築を設計していただろか。
そんなことは誰もわかりません。
石本建築事務所を休職してからの北から南への旅は、軍国主義が闊歩する時代にあって、きれいなまま死するための旅立ちにも感じているのです。
「雨の建築術」日本建築学会編
食品衛生を研究しているパートナーの「災害時における生活用水の衛生」という研究テーマについて話を聞いていたら、過去の災害時においてライフラインが停止したときに、風呂、洗濯、トイレといった生活用水は応急給水によって十分な使用量を確保できないという事を聞きました。都市部ほど確保は難しいと過去の災害報告に書かれているそうです。
災害時の生活用水の確保のためには、一番は各自が雨水を貯めておくことが必要で、その他身近な河川や池、堀などから自ら採取して濾過して使用するしかないだろうということになりました。
そこで近くの神田川の水を採取しようと思ったら地面から水面までの高さがあり、一般の人が水を採取するのは難しいことがわかりました。その他は許可を得て公園や外堀の水を採取して実験に使用させていただきましたが、これらも災害時に閉門されたら一般人は使用できません。東京都心部は、生活用水に使用できそうな水場が意外と少ないことに今回気がつきました。
そんな中で思い出したのが、この本「雨の建築術」日本建築学会編、技報堂出版、2005年初版です。
もう十年以上前の本ですが、当時私は、流行のエコロジカルな建築デザインに矮小化して「雨」の建築的活用を考えていました。
この本は、国内外の実例が豊富に紹介されています。再読して「水問題」という視点で雨ときちんと向き合い、改めて建築の作り方が根本的な革新につながる雨水建築が必要だと思った次第です。
「古建築修復に生きる~屋根職人の世界」原田多加司著
檜皮葺・柿葺師である原田多加司さんの屋根職人としての経験をテーマ別に記述した本ですが、実に多方面な内容にわたっています。目次は以下の通り
[目次]
伝統技術という「方舟」(屋根はいかにして作られてきたか、檜皮葺と柿葺の文化 ほか)
技術は乱世に成熟する(古代技術の探究、伝播は同心円を描く ほか)
語られなかった海外神社の時代(海を渡った神々、海外神社の実態 ほか)
古建築修復の旅(式内社を歩く、「伊勢」と遷宮 ほか)
文化財の森を育てる(国有林開放までの道程、大学演習林の研究 ほか)
歴史的造詣の深さ、国内各地の文化財修復に携わられた屋根葺職人としての経験に裏打ちされた日本古来の技の世界が語られています。
私がこの本に興味を持った最初のテーマは「海を渡った神々」の項でした。
すなわち戦前の日本の侵略地に建立された「植民地神社建築」のあらましです。
原田さんの生家は、江戸時代中期の明和八年(1771年)創業の屋根職人の家で、代々屋根職人を継承され原田多加司さんが10代目とのことです。
その生家が携わった海外の神社建築が、明治34年(1901年)に台湾神社(後の台湾神宮)、明治42年(1909年)に関東州の大連神社・遼寧神社、明治44年(1911年)に樺太神社、大正4年(1915年)に鉄峯神社(満州)等に屋根職人として関わっていると書かれています。
明治から昭和20年の敗戦まで神社の国家体制の中での位置づけは、国家の宗祀(そうし)であり、祭政一致の姿を現出したものと考えられていました。今、再び神社を国家の宗祀にしょうと企てている人達がいますし、またあえて侵略地の神社建築を見ようとしない傾向もありました。
建築デザインとイデオロギーを混同あるいは同一視してはならないと思います。
私も古代史に関心があり、御朱印帳を持って各地の神社を巡っていますが、国家神道は相いれません。
侵略地神社建築は、これまで近代日本建築史の通史では取り上げられることがありませんでした。また戦時体制下の建築として 意匠的に優れていても まるごと否定されてきました。
侵略地神社建築は、ひとつも現存しておらず、わずかな資料しか残っていませんが、ここに一条の光をあてたことは原田多加司さんの優れた業績だと思います。
「建築の保存デザイン~豊かに使い続けるための理念と実践」田原幸夫著
現在、京都工芸繊維大学大学院特任教授の田原幸夫さんが、2003年に書かれた本・学芸出版社から発行された本です。
田原さんは、日本設計で歴史的建造物の保存活用設計に携わった後、2003年JR東日本建築設計事務所に移籍して丸の内駅舎プロジェクトを担当されました。
この本は、季刊「ディテール」(彰国社)に連載されていた原稿をもとに全面的に書き直したものと書かれています。
歴史的建造物の保存デザインについて「修復の手法」「置換の手法」「付加の手法」「新たな手法」の四つに分類整理し、世界各地の事例をあげ説明を加えています。
出版から10数年経過していますが、全然内容が色あせていない本です。
『「保存」においても「復元」においても、決して歴史をごまかしてはならないのである。そして歴史を正しく表現するなかから、本物の環境が形成されてゆくのだと思う。そこにこそ「保存デザイン」の目指すべき原点があるる』という田原さんの指摘は、今とても重要な指摘だと思います。
この本は、田原さんがベルギーのルーヴァン・カトリック大学コンサーベーションセンターにベルギー政府給費生として留学されたからだと思いますが、ベルギーの保存デザインの事例が多く紹介されており、ベルギーで保存活用の建築物を見る場合の参考になります。
「建築武者修行~放課後のベルリン」光嶋裕介著
思想家の内田樹さんの家を設計された光嶋裕介さんのザウアブルッフ・ハットン・アーキテクツ勤務時代のベルリンの街の様子、事務所の雰囲気、ドイツを始めとしたヨーロッパの建築について書かれた本です。
私にとってベルリンは見逃している都市のひとつで、グーグルマップに建築の位置をマークをしながら興味深く読みました。
ヨーロッパは保存・再生・病理学の元祖みたいなところです。
私も学生時代、カルロ・スカルパの建築に憧れました。スカルパの仕事は、ほとんど改修計画で新築はわずかでした。リノベーションの場合は 既存の建物があるわけですから新築より格段に制約が増えます。古びた建物を注意深く観察し、調査し、生かせるものは生かしながら死んだ空間は再生します。新築の場合の何倍もの労力と想像力を必要とします。
さてベルリンといえばライヒスターク(旧帝国議事堂)という歴史的建築物を新生ドイツの連邦議会として蘇らせています。フォスターのキューポラのデザインは「置換」のデザインの代表格といえます。
若い人の「建築旅の記録」を読むことはあまりないのですが、光嶋さんのチャレンジ精神、読書や芸術への造詣には多いに刺激を受けました。
「僕の住まい論」内田樹著
近年著作に触れることが多い、内田樹(たつる)さんの自宅・合気道道場・能楽堂など多様な機能を持っている建物「凱風館」を建てた時のことを建築主としての立場から書かれた本です。
内田さんが命名した建物名「凱風館」の「凱風」(がいふう)は、
詩経の「凱風自南 吹彼棘心」
「凱風南よりして彼の棘心(きょしん)を吹く」から取られたと書かれています。凱風は暖かい南風で、母親や教師の慈愛を表し、棘のある子を温かく見守るという意味です。名は体を表すというか、いい館名だと思います。
「道場が欲しい」から始まって、家を建てようと思った時に、初面識で雀卓を囲んだ若い建築家(まだ住宅を一から設計したことがない)・光島裕介さんに設計を依頼したくだりは感心しました。内田さんは、人を見る目があるというか、無謀というか・・・こんな建築主は、ほとんどいないだろうし。
私が、その仕事に触れたことがある人達が沢山出場します。
岐阜県中津川市加子母に本社がある中島工務店。左官職人の井上良夫さん。瓦師の山田脩ニさん。いい仕事っぷりです。
この本は、「凱風館」の建設の記録、内田さんの住まいに対する考え方の本でもありますが、やはり思想家・内田樹の書く本は違います。「能」「アジール(避難場所)」「逃れの町」「母港」「貨幣」「教育」に対する論が散りばめられています。
読み終わると爽快な気分になりました。
「日本近代建築塗装史」社団法人 日本塗装工業会編著
歴史的建築物の調査をしているうちに、明治・大正時代の塗装に興味が湧いて読んで見た。
この本では「建築塗装文化史」として塗装の起源から古代、西洋塗料の伝来、明治から昭和までの建築や構造物と塗装、塗装業界、塗装技術について書かれている。
塗装の歴史について、まとまつて本を読んだのは初めてだったので「目からうろこ」の部分も多々あった。
我国では西洋からの輸入塗料を用いた塗装工事が幕末から明治の初めにかけて開始され、塗装工事業が先に確立した。国産塗料製造が本格化するのは大正時代に入ってからだそうだ。
安政6年(1859年)に開港した横浜、長崎、函館、その後開港した神戸、大阪、東京、新潟に進出した外国商社は200社から250社といわれ、なかでも横浜はその60%が進出して活況を呈していた。
明治26年刊「横濱貿易捷径」では塗料を扱っていたと思われる商館は14社、その他「横浜商人録」(神奈川県立金沢文庫蔵)には、4人の邦人ペイント商が記載されているとある。
「明治村における塗装」の章では、塗装資料の検証に役立つ貴重な建物が保存展示されているとあり「三重県庁舎」の油性塗料を用いて高価な木材種の木目を描く「木目塗装」。「鉄道寮新橋工場」の移築前の鋳鉄柱、外壁鉄板、サッシュ等のすべての塗料はイギリスから輸入され、イギリス技術者の指導の下に建設されたとある。もつとも現存建物は近代塗料に塗り替えられている。
歴史的建築物の下地から現れる塗料の被膜。それは輸入品か国内品か、一体どんな塗料で、最初の色は何なのか。ミステリアスな世界が待ち受けている。
「Pen・2016・10/1・№414 いま行くべき美の殿堂 ミュージアム最新案内!!」
妻が買ってきた「Pen」の最新号。
中々 刺激的な建物が掲載されている。
巻頭写真は、ドレル・ゴットメ・田根/アーキテクツ(DGT.)の「エストニア国立博物館」。場所の記憶。滑走路から未来への飛翔。
パラパラとページをめくっていて見てみたいと思った建物は、
ひとつは、藤森照信さんの岐阜県「多治見市モザイクタイルミュージアム」
これは、近々 岐阜県に行く予定があるので是非立ち寄ってみたいと思った。
http://www.mosaictile-museum.jp/
そして フランクゲーリーの「フォンダシオン ルイヴィトン」。
パリ西部ブローニュの森にあるアクリマタシオン公園に2014年に完成した。
写真は、フランク・ゲーリーのオリジナルの外観。
現在は、ガラスの帆に13色のフィルターと白いテープがダニエル・ビュレンによって加えられ「光の観測所」というアート作品になっている。
「日本の植民地建築~帝国に築かれたネットワーク」西澤泰彦著
2009年に日本建築学会論文賞を受賞された、現名古屋大学教授である西澤泰彦さんの本です。戦前、日本帝国の拡大・侵略・統治とともに東アジアに広がった植民地(朝鮮・中国・台湾)には、日本の近代建築から忘れ去られた建築群がありました。
西澤さんは、建築が植民地支配に果たした役割を余すところなく描き出すとともに、近代日本建築史の欠落を埋め、初めて本格的な歴史的評価を示した人です。
この本では、台湾総督府・朝鮮総督府・関東都督府・満鉄・満洲国政府の建築組織とそれぞれのネットワークを明らかにしています。
また植民地建築を支えた建築材料~煉瓦・セメント・鉄に焦点をあて、これら材料の確保の実情を明らかにしています。植民地経済の実態に迫るもので非常に興味深い論考でした。
台湾では、1900年(明治33年)の「台湾家屋建築規則」、「台湾家屋建築規則施行規則」が本土と比べても早く法制化されていますが、それは都市化が急速に進んだという事を示しています。
台湾では、本土より早く普及した鉄筋コンクリート造の建物が普及し、建築後10年程経過して柱、梁の亀裂が入りコンクリートの剥離や脱落が見られるようになり、台湾総督府の栗山技師が調査・研究にあたったと書かれています。その結果を1933年1月刊行の「台湾建築会誌」に「鉄筋コンクリート内の鉄筋の腐食とその実例」という論文にしたと紹介されています。それが日本国内でも注目を集め、台湾で起きた問題は日本国内でも将来起こりえる問題として捉えられ、1936年8月には当時の鉄筋コンクリート造構造の権威であった東京帝国大学教授の濱田稔と日本大学教授の小野薫が台湾を訪問し、被害実態の把握と原因の考究をしたとし、その内容を紹介されていますが、現在につながる鉄筋コンクリートの耐久性の問題は、とても面白かったです。
台湾でいち早く普及した鉄筋コンクリート造は、問題が表出するのも早く、台湾総督府の技師たちは対応策も考えられたにもかかわらず、その蓄積された技術が十分に日本国内の建築技術には生かされなかったようです。
西澤さんは「建築はもっとも雄弁に時代を語る存在である」という村松貞次郎さんの言葉を掲げています。建築を語ることは、その時代を語ることであり、歴史を語ることにつながるという視点はとても大事だと思いました。
「建築再生学~考え方・進め方・実践例」編著:松村秀一
2016年1月に市ヶ谷出版から発行された本です。
「これからは既存の建物に手をかけることが主役」という時代認識のもと、建築再生という新分野の課題や実務上の展開の方法を体系的に捉えることを全面的に支えようという意図で編まれたものと書かれています。
大学等の教育機関での「建築再生」の教育方法は、未だ手探りであり、全国的みても「建築再生」の講座がある大学はないのではないかと思います。
個人的には大学等を卒業して一定の実務経験を経た人を対象として「建築再生学」を学ぶ場所を提供した方が良いのではないかと考えています。建築再生のカリキュラムを考えたとき、各個別の項目である建物診断、構造、劣化、設備、外装、内装、法的知識等は何れも基礎的知識がありその上で個別の対応が必要になります。すなわち応用が必要となります。
私の場合は、建築基準法等の法的アプローチで「建築再生」に関わってきましたが、例えばコンバージョンの場合、現在の用途と変更後の用途の、独自の法チェックリストを作成して計画段階から問題点を整理したり、検査済み証が無い場合の手続きを担当し、そこから建物診断や耐震診断・耐震補強業務に関わってきました。
ついこないだまでは、黒子の業務が多く「図面を書かない設計事務所」と言っていたのですが、最近はデザイナーとのコラボレーションのケースや実施図面まで全て依頼されるケースも増えてきました。又歴史的建築物の業務比重も増えてきています。
「建築再生学」を進めていくうえで「建築病理学」も体系的に整理していく必要があると思います。
いずれにしても この本は「建築再生学」を体系的にまとめてあり、「建築再生学」の教科書として利用できる わかりやすい本になっています。
「暮しの手帖」初代編集長・花森安治
連続テレビ小説「とと姉ちゃん」花山伊佐次のモチーフである『「暮しの手帖」初代編集長・花森安治』(暮しの手帖別冊)を読みました。
「もう二度と戦争をおこさないために、『暮らし』を大切にする世の中にしたい」という思いで「暮らしの手帖」を創刊したという花森安治さん。
誌面の美しさと、言論の自由のため、広告をいっさい載せないという唯一無二の雑誌。
衣食住をテーマに数々のヒットを飛ばした「カリスマ編集長」の軌跡を紹介しています。
実は、「暮しの手帖」も「花森安治」さんも「とと姉ちゃん」で初めて知りました。装丁や誌面デザインがとても美しいですね。大胆な余白と書き文字で、ひとめ見ただけでわかる誌面が心に焼き付きます。
「わたしたちの夢の住まい」
終戦後、都市に住む人のほとんどが戦火で家を失い、粗末なバラック等に住んでいました。焼かれた街になにもなかつたように、家の中にも何もありませんでした。
ないなら作ろ。
それが住まいの記事の始まりだったと書かれています。
1952年掲載された「小さいけれどうれしいわが家・三帖ひと間の家」には、住み手の喜びが溢れた写真が掲載されています。終戦の翌年、中国の奥地から引き揚げてきた女性は、兄の家に身を寄せていたが、間借りをしているのが心苦しく、3帖ひと間にベッド・収納・トイレ・流しのついた7帖・2坪あまりの住まいを建てられました。工事費は8万かかったそうです。
1954年に掲載された「たまのお客より家族の暮らし・六角形の家」は、奇をてらって六角形にしたのではなく、外壁の面積が減り、材料や工費、暖房費を減らせ室内を広く使え地震に強いと言う理由からだそうですが、階段を中心に展開する二階建ての住まいは、とても使い易そうで感心しました。
アドバイスをしていたのが大成建設でホテルニューオオタニ等の設計を手掛けられた建築家の清水一さんと知り、あ~そうだったんだと頷きました。若いころ清水一さんの書かれ本を幾つか読んだことがあります。専門家向けの本ではなく一般の方や若い学徒のために書かれたエッセイ集のような本でしたが、人に向けるまなざしが優しい人だという記憶が残っています。
「暮しの手帖」は、こうした家の実例を数多く紹介し、暮らし方を含めて提案したそうですので、是非バックナンバーを読んでみたいと思っています。現在の建築基準法の成立時期の庶民の住まいは、どんなものだったのか興味深々です。
「PEN 2016・8/15・№411」いつの日か訪れたい奇跡のホテル
妻が美容院でながめていて、よく読みたいとあとから買ってきた雑誌。
「絶景・自然」「建築・デザイン」「ホスピタリティ」「美食」のテーマで「奇跡のホテル」を紹介している。ちょっとやそっとで行けないホテルがほとんどであり、永遠にいけないかもしれないが、ここには至極のホテルが紹介されている。
興味深かったのは、イタリア・バジリカータ州・マテーラの洞窟住居を、現代的にリノベーションした「バジリアーニ・ホテル」
1993年に世界遺産に登録された「マテーラの洞窟住居と岩窟教会公園」の洞窟住居の一角を宿泊施設にリノベーションしてできた全11室のホテル。
ホテルのオーナーは、建築家のジュゼッペ・スターニョ。
一人の建築家が遺産を買い取り、ホテルという体験できる場所を伝えてくれたことに敬意を表したい。
「雪あかり日記/せせらぎ日記」谷口吉郎著
1938年、アドルフ・ヒトラーの指揮の下、第三帝国へと都市計画の進むベルリン。若き日の谷口吉郎さんは、日本大使館の改築監督のため赴任しました。ナチスによって大規模な反ユダヤ攻撃がドイツ各地で起きたいわゆる「水晶の夜」に「うすら寒く、鉛色の空」のベルリンに到着します。それからナチスのポーランド侵攻、独ソ不可侵条約締結の4日後に陸路ノルウェーへ出国、日本へ向かう船で英仏の対独宣戦布告の報を聞くまでの1年弱の激動する政治社会情勢のもとで欧州の建築、人々の暮らしが描かれています。