『あわいの力・「心の時代」の次を生きる』安田登

能の主人公の「シテ」に対して「ワキ」はワキ役ではなく「横(の部部)」を指すそうです。着物の脇の縫い目の部分を「ワキ」と言い、着物の前の部分と後ろの部分を「分ける」からで、古語でいえば「分く」その運用形が「ワキ」。体の横で前と後ろを「分ける」と同時に、前と後ろをつなぐ「媒介」にもなっている。この「媒介」という意味をあらわす古語が「あわい・あはひ(間)」と書かれています。

世阿弥は「心(しん)より心(しん)に伝ふる花」という言葉を残しています。能という芸能を端的に表現した言葉だそうですが、「心(しん)」という言葉の意味を押さえて置く必要があると言います。

日本的な心(しん)というのは三層構造からなっている。いちばん上、表層にあるのが「こころ」で、その下に「こころ」を生む「おもひ」というものがあり、さらにその下、もっとも深い層に「心(しん)」が存在する。

安田登さんは「心(こころ)」だけで物事を理解し考えようとするのではなく、身体という外の世界とつながる「媒介」を通じて身体感覚で思考する。それが「心(こころ)」の副作用が蔓延する現代から次の時代にかけて、生きるために必要な力となっていくと私たちを導いてくれます。

「かんがえる」の語源は「か身交(みか)ふ」で、「か」は接頭辞なので、もともとの意味は「身」が「交ふ」、つまり身体が「交わる」状態を指す。身体が「交わる」ときに、すなわち思考が生まれると古代の人は、この言葉をつくつたのではないかと書かれています。

「かんがえる」のにいちばん適しているのは、自然の中を歩くこと。鳥のさえずりや葉のそよぎ、川のせせらぎの音を聞きながら歩いていると、いつしか「外」の自然と「内」の自己が「交わ」って、自分が普段おもいつかないようなことが引き出される。身体が「か身交(みか)ふ」のは、自然とだけではなく、思考する対象と自分が「か身交(みか)ふ」ことも大事。思考する対象と身体的にも交わる、そのとき思考する対象と身体的に交わる、そのとき思考する対象と自己の境界はあいまいになり、そこに思考が生まれると書かれています。

能楽師ならではの視点なのでしょう。凡人には中々すんなりとは理解できない事が多いのですが、身体感覚に基づいて思考する安田登さんの指摘は示唆的です。