「街場の天皇論」内田樹著

「ぼくはいかにして天皇主義者になつたのか・立憲デモクラシシィーとの共生を考える待望のウチダ流天皇論」と表帯に「今の天皇制システムは政権の暴走を抑止し、国民を統合する貴重な機能を果たしている。」「国家には、宗教や文化を歴史的に継承する超越的で霊的な「中心」がある。日本の場合、それは天皇である。」「今上天皇は選択された血縁者のみではなく、すべての死者を背負っている。」「日本のリベラル・左派勢力は未来=生者を重視するが、過去=死者を軽視するがゆえに負け続けている。」と裏帯にあります。

日本では、古代から統治システムとしてヒメ・ヒコ制をとっていました。

「ヤマト王権が成立する前後の古代日本では祭祀的農耕従事的女性集団の長(ヒメやミコ、トベを称号とした)と軍事的戦闘従事的男子集団の長(ヒコ、タケル、ワケあるいはネを称号とした)が共立的あるいは分業的に一定地域を統治していた。『古事記』、『日本書紀』、『風土記』などの文献には宇佐地方(豊国)にウサツヒコとウサツヒメ、阿蘇地方にアソツヒコとアソツヒメ、加佐地方(丹後国)にカサヒコとカサヒメ、伊賀国にイガツヒメとイガツヒコ、芸都(きつ)地方(常陸国)にキツビコとキツビメがいたことを伝えている。また『播磨国風土記』では各地でヒメ神とヒコ神が一対で統治したことを伝えている。そのような女性・男性の首長はその地の神社の由来となっていることが多い」(ウィキペディア)

それから中世の摂関政治、征夷大将軍による幕府政治にいたるまで祭祀に関わる天皇と軍事に関わる世俗権力者という「二つの焦点」を持つ楕円形の統治システムが続いてきました。この二つの原理が拮抗しあっている間は、システムは比較的に安定していましたが、その拮抗が崩れるとシステムが硬直化し崩壊して来たことを歴史は教えています。

この「二つの焦点」は政治の統治システムだけでなく経営システムにも有効であると考えて弊社もヒメヒコ制を採用しています。

戦前の大日本帝国の最大の失敗は「統帥権」という本来は天皇に属している世俗政治とは隔離されているはずの力を、帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)を持つ一握りの軍人が占有したこと。つまり拮抗した祭祀的な原理と軍事的原理をひとつにまとめてしまうとことで日本の伝統的政治文化における最大のタブーを犯し敗戦という巨大な災厄を呼び込んでしまいました。

内田樹氏は「立憲民主制と天皇制」という「両立しがたい二つの原理が併存している国の方が政体として安定しており、暮らしやすいのだ」と説明しています。私も昭和天皇・今上天皇が「象徴天皇」として「霊的権力」「道徳的中心」としてあられた戦後70年が平和的で安定していたと思っています。この「二つの焦点」を単一的な焦点にして大日本帝国に戻したいと言う力が強く働いている現在に抗するには、象徴天皇制についてきちんと考え直さないといけないと思いますが、この「街場の天皇論」は大いに手助けしてくれます。

「排除」ではなく「包摂」と「多様性」こそが日本人のDNAです。