浄感寺・長八記念館

仕事で三嶋に行ったついでに修善寺で一晩泊まることにしていましたが、まさか西伊豆まで行くとは本人も思っていませんでした。

修善寺に着いたら旅館のチェックインには時間があるし無計画だったのでどこに行くというあてもなく駅前でうろうろしていたら路線バスで松崎行というのが止まっていました。運転手さんに聞いたら修善寺から松崎まで100分。帰りは一時間に一本はバスがあると聞いて、自販機でお茶を一本買い飛び乗りました。

まったくの思いつきの路線バスの旅でした。

伊豆の山道を走る路線バスの中では爆睡。堂ヶ島あたりでようやく目が覚めました。

以前から機会があったら訪れたいと思っていた長八記念館・長八美術館を訪ねることができました。

フラッシュを発光させなければ写真はOKと許可を取り、飛天の図を撮影

対となっている もう一つの欄間にある飛天の図

天井に描かれた雲竜の図は、見る位置によつて表情が違うと言われましたが・・

こちらが山門側・表玄関です

彫も素晴らしいです

近江八幡市立八幡小学校

近江八幡市立八幡小学校

1873年に創立された143年の歴史がある小学校

ネオルネッサンス調とのこと

校舎脇の駐車場から撮影

話は変わるがミュージシャンの岡林信康は近江八幡の出身。

お父さんは、ヴォーリスの薫陶を受け近江八幡で教会の牧師していた。

岡林信康は牧師の息子で高校卒業まで近江八幡にいて、同志社大学神学部に進学したがドロップアウトしてミュージシャンに。「フォークの神様」と言われたのは彼の生い立ちに関係している。

織田信長のルーツは近江八幡市南津田町の津田親眞だとする研究成果の結果「近江国 津田・織田一族始祖 津田親眞顕彰之碑」が建てられている。

平安末期、平資盛(すけもり)の子として近江国津田郷で誕生した親眞は、越前国(現在の福井県)織田荘の劔神社に養子に行き、その子孫が尾張守護職となり織田に改名し、親眞から十四代目の子孫として信長が誕生した書かれている。

色々な人のルーツがここにあると知り、近江は面白いと思いました。

本願寺八幡別院

浄土真宗本願寺派八幡別院

現在の本堂は1716(享保元)年、表門は1767(明和4)年、裏門は1782(天明2)年、鐘楼は1825(文政8)年にそれぞれ建立され、いずれも滋賀県有形文化財の指定を受けています。

別院周囲には堀が廻らされ、城郭のような風情を残しています。

 

クラブハリエ・日牟禮カフェ -3

キッシュが美味しかつたです

ケーキは色々種類があって目移りするぐらい

旧忠田邸を改装しカフェにしたと書かれています

店内から眺める庭

近江八幡、昔ヴォーリス 今たねや

というくらい「たねや」グループの建物が目立ちます

近江八幡の水郷

近江八幡和船観光協同組合の乗場

手漕ぎの和船

葦が勢いよく伸びていました

「近江八幡の水郷」

は重要文化的景観選定第1号に選ばれています

鴨×2

天気に恵まれたせいもあるでしょうが、

船で揺られていると とてもゆったりとした気持ちになりました。

これが「1/fゆらぎ」かな

桜の開花時期が良いと船頭さんは言っていましたが、

葦の勢いがある この6月上旬の時期も

生命の息吹を感じて良いですね

時代劇・剣客商売のロケ地としても有名です

 

八幡堀

八幡堀

八幡堀は天正13年(1585年)に豊臣秀次(秀吉の甥)が八幡山に城を築き開町したことに始まるそうです。秀次は、八幡堀と琵琶湖とを繋ぎ、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで、人、物、情報を集め、さらに楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気づけたと書かれています。

八幡堀は交通路や生活の場として長く機能してきましたが、生活形態が変わりだした昭和30年代もなると、忘れ去られた存在となり、草が生い茂りハエや蚊が発生しゴミが不法投棄されるなど公害源となったそうです。

一時は、埋め立てしまう計画があったそうですが、地元から反対運動が起き浚渫と復元により現在の状態になったとあります。

今は映画やドラマのロケ地としても活用されています。

かわらミュージアムの一画

今、八幡堀は近江八幡の貴重な観光資源となっていますが、先人達の環境を守る運動のおかげです。西日本でも江戸時代からの風情を残す数少ない場所となっています。

ラ コリーナ近江八幡 -10

オフィス棟展望室を見上げる

草屋根の端部

カステラショップ

このショップの内装は、栗の木がモチーフとなっています。日本人と栗とは縄文時代より関わりがあったようで、青森の三内丸山遺跡からはたくさんの栗の柱と大粒の栗が出土しています。また三内丸山遺跡では、栗の巨木を柱に使った建造物があり、遺跡の周辺の森は大半が栗の林でしかも縄文人が肥料を与え計画的に植林をしていたのではないかとも推測されており栗とともに栄えた定住型都市型社会だったと言われています。