マラヤ・コンサートホール

 サウジアラビアの「マラヤ・コンサートホール」砂漠地帯に建設された全面鏡張りの建物。マラヤ(Maraya)は、アラビア語で反射、反映、または鏡を意味するという。

 9,740平方メートルの大きさを持つこの建物は、アラビア半島とレバント地方を結ぶ貿易のルーツとして知られる歴史的な街マダイン・サーレハの近くの砂漠地帯に建設されたとのこと。まるで蜃気楼をみているようだ。一度は訪れてみたい。

 鏡張りのではないが、ロンドン市中心部に建設中の「20フェンチャーチ・ストリート」ビルディング。凹面状の形状の為に、壁面ガラスの反射熱で目玉焼きが焼けると言われていたが、その後どうしただろうか。市街地の建物では熱線反射ガラスはあまり使ってもらいたくはない。

ウィトゲンシュタイン・ ストンボロー邸 

【1989年撮影】

20世紀を代表する哲学者 ウィトゲンシュタインと建築家 パウル・エンゲルマンにより生み出された「ストンボロー邸」1928年竣工。

オードリー・タンの本を読んでいて、「ウィトゲンシュタインから強い影響を受けた」と書かれてあり驚いた。ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」昔、本をパラパラとめくった記憶もあるが歯が立たなかった。

ウイトゲンシュタインの後期の思想は「言語ゲーム論」と呼ばれ、言語の意味を特定のゲームにおける機能として理解すべきものとオードリー・タン氏は書く。ウイトゲンシュタイの言葉の使い方について、その言葉がどんな意味を伝えるのか、一つの単語がいったいどのような意味を伝達するのかを、非常に厳格に捉え、言葉の使い方次第で、まるでひとつひとつの単語の概念がそれぞれの役割を変えていくかのように変わっていく。それらは論理関係を通じて連結するが、この連結の方式も固定したものでなく、実際の状況に合わせ、まるで絵を書くように世界の真実の状態を反映させると。オードリー・タン氏のAI推論はウイトゲンシュタイから学んだものだと。

その頃私は、哲学者としてのウイトゲンシュタインには、あまり関心がなかった。今でもさほど関心があるわけでもないが、同じような出会いがあっても受け取る側によって異なるものだと、つくづく思う。

昔、大先輩にこう言われたことを思い出した。

「ひとりひとりの心には、それぞれ深い井戸があり、その井戸にはまり込むと抜け出させなくなるよ。」と、そういわれてから哲学の勉強を止めて経済学に変更した。

そういえば、私がまだ30代の頃ウィーンの「ストンボロー邸」を見に行っていた。その時の写真(ポジ)はどこだつたかなと探してみたのが ここに掲載する写真で1989年の撮影。ウイトゲンシュタインには、あまり関心がなかったのだろう。写真もさほど撮影していない。


アドルフ・ロースの弟子 パウル・エンゲルマンとの共同で設計された、ウィトゲンシュタインが生涯で唯一関わった建築・姉のための住宅「ストンボロー邸」

本棚を探してみたら、このストンボロー邸の小冊子が出てきた。多分この建物で購入したものだろう。

こんなチケットも出てきた。記憶にないが有料だったのだろう。

ウィトゲンシュタインの哲学が色濃く現れているとも言われる内部空間、そして徹底的に、偏執的にこだわったディテールの数々。現代から見れば幾何学的でしかなく、つまらない建物なのだが、100年前では異端の建築だったのかも知れない。

私が見に行った1989年当時でも 異色の存在感を放っていた。景観的には違和感があるようにも思えたが。

姉・マルガレーテは、一度もこの家に住むことはなかったと伝えられている。

ガララテーゼ集合住宅-1 Aldo Rossi + Calro Aymonino

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ガララテーゼ集合住宅 Gallaratese Housings
アルド・ロッシ + カルロ・アイモニーノ

Aldo Rossi + Calro Aymonino
建設 1970年

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上の二枚がアルド・ロッシの設計によるもので、たぶん一棟だけが無機質な外観。他の部分は彩色豊かな カルロ・アイモニーノ担当の建物。

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ヴィラ・マラパルテ -4 / Adalberto Libera

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カプリ島の港・ナポリからフェリーで小一時間

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この小舟をチャーターして船着場まで

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こんな澄みとおった海は見たことが無いぐらい。

陽にきらめいている水面が印象的だった。

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船着場から急な階段を上り

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ヴィラ・マラパルテが現れる

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山側のアプローチを望む

ヴィラ・マラパルテ -3 / Adalberto Libera

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【地中海を望む】

ゴダールの「軽蔑」のロケ場所となった、この別荘は外部の1階から2階の屋根までが階段になり、その上にこの屋上テラスがある。

「軽蔑」のロケは、このテラスや室内を使った。

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【映画「軽蔑」の一シーン・監督:ゴダール】

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この映画を若い時(多分高校生の頃)に観てから、いつかは実際のロケ場所を見たいと思っていた。大学に進むまでは文学青年で、建築に進むとは自分でも思っていなかった。

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1989年に訪れた時は、まるで恋焦がれた女性と初デートしたような 胸のときめきを覚えた。

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山から連続する階段(屋根)を昇るとこのテラスに進む。

そこは神々しい儀式の場。

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【1963年の映画「軽蔑」のポスター】

ヴィラ・マラパルテ -1 / Adalberto Libera

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作家でありジャーナリストでもあったクルツィオ・マラパルテ(1898-1957)の住宅。

マラパルテは、1922年のローマ進軍に参加したファシストでありながら、その後ファシズムに批判を向けた著作「クーデターの技術」を発表し、その為にバリ島で五年間の流刑を甘んじて受けることになる。

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カプリ島の地中海を臨む高台に作れたこの住宅は、海に向う階段として構想されている。

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カプリ港から小舟をチャーターし島をめぐり、この住宅の船着場からアプローチした。

陸路 この建物を探してたどり着いても門は閉ざされていると聞く。

1989年ナポリからカプリ島へ渡ったときの写真である。

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サンカタルド墓地 -1 / Aldo Rossi

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モデナ郊外のAldo Rossiの設計による墓地・San Cataldo Cemetery

非常に広大な墓地で、道路を挟んで旧館と新館とも言える墓地に分かれており新館がこの建物である。

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この建物の中は、屋根のない納骨堂になっており、周囲の建物とは、異なり無縁仏を弔っているのではないかと思える。

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この外界と隔てる建物の中の墓地は、故人の遺影がそれぞれ飾ってあった。

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静寂というかあまりに悲しげな空間だったと記憶している

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サンテリア幼稚園 / Giuseppe Terragni

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写真に映っているひとの中には故人となった人もおり懐かしい

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ジュゼッペ・テラーニが生きた時代は、ムッソリーニ政権下のイタリアファシズムの時代だった。

その中にあって、テラーニはモダニズム運動の旗手の一人として「<新しい体制>の表現としての建築」にその生涯を託した。

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彼の作品はモダニズムの建築として、近代イタリアという枠を超えている点で高く評価されている。

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インターナショナリズム(ラショナリズム)とナショナリズム。アヴァンギャルディズムとクラシシズム。

「大衆のための建築」と「国家の建築」といったアンヴィヴァレントなジレンマが含まれているという。そこにテラーニの悩み、自殺の要因が秘められているように思う。

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カサ・デル・ファッショ / Giuseppe Terragni

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ジュゼッペ・テラーニの代表作とも言えるカサ・デル・ファッショは1936年の作品である。

邦訳すれば「ファシストの家」つまりイタリアファシスト党の地方事務所である。

訪れた当時は、税務署として使われていると聞いた記憶があったが、今回調べ直してみたら 現在の用途は、国境警備隊本部のようである。コモはスイス国境に近い。

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コモを訪れた時は、「カサ・デル・ファッショはどこにありますか?」などとは聞かないことだ、怪訝な目で見られることは間違いない。自分もそういう目で見られた。

ジュゼッペ・テラーニは、ファシズム下のイタリアにあって建築集団の左翼を形成していたイタリア合理主義(ラショナリスト)達のひとりである。

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「ファシズムとはガラスの家である」と言ったムッソリーニの命題に応えるべく造ったイタリアファシズム建築の代表作といえるだろう。

テラーニ自身がファスト党党員であり、従軍し、後に自ら命を絶った。

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「なんだ 単なるモダニズムじゃないか」と言ってコピーする無かれ、心のこもらないコピーニストに真のモダニズム建築は造れない。

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戦没者慰霊碑 / Giuseppe Terragni

若い時 訪れたヨーロッパの建築と それにまつわる思い出を時々書き綴ってみようと思う。

昔のネガフィルムやビデオを、倉庫の段ボールの中でこのまま寝かし続けておくこともないだろう。今のところスライドやネガからデジタル化して掲載するので、画質や色調があまりよくない。

8mmビデオからデジタルへの変換も依頼してあるので、後ほどそちらの写真に差替えるかもしれない。

ともかく、いまなおそこにある有名建築もあるし、取り壊されてしまった建物もある。

昔の写真を見ると色々なことが思い起こされてくる。

まずは学生時代から好きな建築家 イタリアのジュゼッペ・テラーニから

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これは、イタリア北部のコモ湖岸にある戦没者慰霊碑。

1989年に訪れた時の写真。

もう あれから25年経った。

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アントニオ・サンテリアが死の二年前にスケッチした「灯台のスケッチ」(1914年)を、同じ未来主義者エンリコ・ブランボリーニが戦没者メモリアルとして転用する事を計画し、その後紆余曲折を経て1933年ジュゼッペ・テラーニの手によりサン・テリアの故郷であり、又 テラーニの主たる活躍の場であったコモの湖畔に建造された。(1931年~1933年)

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フラックタワー

 

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妻が大好きなヴィレッジヴァンガード(雑貨・本)に、付き合って行った時に見つけた本。

パラパラと眺めていると 何で? どうしてこうなったのか、果たしてこの建物は芸術か、それとも狂気かと思ってしまう建築が100棟取り上げられている。

その中には、歴史的な建築もあれば、現代建築もある。

又 私が以前見た建築も幾つか紹介されている。

その中のひとつが ウイーンにあるフラックタワー(高射砲塔)である。

ヒトラーの指示により、連合国の空襲に対抗する為に建てられた高射砲塔(フラックタワー・Flak Tower 独語ではFlakturm)は、ウイーンの旧市内に4箇所 戦後も風雨にさらされたまま残っていた。

一般の旅行案内書には載っていない建物で、私が1989年にウイーンを訪れた時、短い滞在期間の中でも、一度は見ておきたいと公園内を歩きまわり この「ナチスの負の遺産」に行った。

あまりにも頑丈なコンクリート構造物である所以か、ナチスが滅んでもなお未来永劫残るかのごとくある この建造物。

今 この本を読んで当時の記憶が蘇ってきた。

文中、G塔とはGefechtsturm  戦闘塔、L塔とは戦闘塔に付属する指揮塔 Leitturmであり、本来はこの二つが対になる。

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 【2区アウガルテンのG塔・1989年に私が撮影した写真】

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【2区アウルガルテンのL塔・1989年に私が撮影した写真】

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 今日、ウィーンの高射砲塔はすべて国もしくはウィーン市の財産として管理されているが、その中のひとつエステルハージ公園のL塔は「海の家」(水族館)として再利用されている。

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【海の家 アクアテラ動物園・HAUS  des  MEERES】

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【外壁の一部はウォールクライミングの練習場としても利用されている】

【海の家 アクアテラ動物園・HAUS  des  MEERES】

 

http://www.haus-des-meeres.at/