2024年1月撮影・高木部の植樹
ここから下の写真は2023年6月下旬のもの
現在夏場と冬場の屋上等の植栽の比較対象を行っています
建築法務/ 建築ストック再生・活用 /長寿命化/ 環境建築 / 建築設計監理 / ㈱寺田建築事務所・一級建築士事務所
2024年1月撮影・高木部の植樹
ここから下の写真は2023年6月下旬のもの
現在夏場と冬場の屋上等の植栽の比較対象を行っています
屋上庭園の回遊部
外周のガラス手摺の部材はアルミでカーテンウォールだと思うが、
この柱と梁の塗装の仕様は何か気になった
出隅部分のファスナー
【中庭ゾーン】
この写真は2024年1月撮影
当然落葉樹の葉は落ちている
2023年6月下旬の植栽と2024年1月下旬の対比確認
ほぼ夏場と冬場の植栽の状況を見に行った
2024年1月の芝生ゾーン
銀座は、どこもかしこも外国人観光客が多かった
その昔より多国籍化が進んでいる
【中庭ゾーン】
写真は、2023年6月
【芝生・水盤ゾーン】
GINZA SIX ガーデン
銀座最大、地域に開かれた約4,000㎡の屋上庭園
『なぜ二十一世紀になってから姉歯事件に象徴される社会を揺るがすような建築の諸問題が起きているのか。そこには制定後七十年経つ「建築基準法の制度疲労」という根本的な問題がある』と本書は指摘する。
建築基準法は改正するたびに複雑怪奇で糸が絡んだ蜘蛛の巣のような法令となっていく。確かに制度疲労なのかも知れない。
形式的で形骸化。書類上整っていれば良い。間違い探しの確認申請審査。最低基準のはずだったのに最高基準とはき違えている人。建築基準法の世界にいると何だか精神的に疲れてしまう。
「建築基本法は、建築の理念と関係者の責務をうたうものであり、それに対する具体的な規制や制限、罰則などは自治体が条例で具体化する必要がある」と本書は書く。
地方自治分権が前提となつているので中々大変な作業ではある。
また『「建築基本法」が目ざすもの(案)・2012年3月 建築基本法制定準備会(会長 神田 順) <120327版>』では次のように書かれている。
『1.建築基本法の理念
「 豊かで美しい成熟社会を築くために、安全で質の高い建築と地域環境をつくる 」
-建築と地域環境を価値ある社会資産として蓄積し、世代をこえて引き継いでゆくこと-①建築と地域環境の質を高めて、安全と安心、健康と環境をまもり、豊かな成熟社会を創っていきましょう
②建築と地域環境が本来持っている価値を守り、社会的・文化的資産として次世代に継承していきましょう
③建築と地域環境作りに対する役割と責任を確認しあい、協力して美しい都市のたたずまいを作り出していきましょう
⇒「質の高い建築づくりで、豊かで美しい成熟社会をめざす」ために、建築基本法が必要なのです』
極めて正論である。であるからこそ、こうした方向に舵をとらなければならないのだと思う。
ということで、この度「建築基本法制定準備会」正会員としての入会が認められたので、今後はこれらの理念に沿って活動したい。
今年になってからの我家のマイブームは、日本酒の熱燗
昨年の年の暮れに神田須田町の「いせ源」で菊正宗の熱燗に出会い
「熱燗」の美味さを再認識
1月になって朝晩は寒い日が続く ということで
正月用の「田酒」を寒い処の酒だから
「熱燗」も美味いのではと妻とはなして試しに熱燗にしてみたら、
これがビンゴ。
徳利と盃を買い、ちびりちびり
尚、私は盃2杯程度しか飲めない。
「美食地質学」聞きなれない言葉だなと思いながら本屋さんで眺め面白そうと思い購入。
著者は「マグマ学者」と自称するが、つまり地球の進化や火山・地震のメカニズムの研究者。日本各地の食文化と地形・地質との深い関わりに注目して本書を著したとある。
酒や食べる事が好きな学者さんというイメージだが、食文化に対する造詣は、蘊蓄(うんちく)等というものではなく。その知識の深さに圧倒される。
具体的には 出汁、豆腐、醤油、蕎麦、江戸東京野菜など多彩な食材を取り上げて食文化について書いている。
和食の特徴を支えている「出汁(だし)」は、出汁そのものは濃厚ではないが、他の食材の魅力を究極までに引き出す。その出汁の奥深さは昆布と鰹の旨味の相乗効果によるものだと言われているが、ここで重要なのは「水の硬度」なのだという。
日本列島の水は圧倒的に「軟水」で、これが昆布の旨味成分であるグルタミン酸を効果的に抽出することができるのだという。京都の地下水は「軟水」で、これが京都で和食文化が花開いた一要因なのかもしれない。
一方、フランス料理のブイヨン・フォンの主役は、獣肉や鶏肉に含まれる旨味成分で、主にイノシン酸。それにはカルシウムを多く含んだ硬水を使った方が、より清浄なブイヨンがとれる。ドイツ、フランス、イタリア等のヨーロッパの水は「硬水」。
このように「水の硬度」と「食文化」との関わりに目が開かれた思いだ。
又、日本酒と水との関係も興味深かった。
2023年の年の暮れに神田淡路町(旧連雀町)あんこう鍋「いせ源」に行ったが、主力の日本酒は「灘の五郷」の「菊正宗」で、それも熱燗だった。この旧連雀町界隈では、菊正宗の看板がよく目に入る。辛口で力強い「灘の本醸造酒」は「男酒」とも称されるが、居酒屋が登場するまで蕎麦屋は庶民の酒場だったそうで、そこでこだわり続けているのが「男酒」らしい。そういえば淡路町(旧連雀町)の蕎麦屋「まつや本店」でも、昼間っから酒を飲んでいる人が多かった。
「灘五郷」の日本酒というと、「沢の鶴」「白鶴」「剣菱」「福寿」「松竹梅」「日本盛」「白鷹」「白鹿」と全国に知られた酒蔵が目白押しで、この灘の男酒を支えているのが「宮水」(西宮の水の略)。
花崗岩からなる六甲山系の伏流水が湧き出るこの水は、国内で最も鉄分が少なく、最高の酒蔵好適水で、中硬水に分類されるとのことだ。
「日本酒を育む花崗岩の成因」というように、著者の専門分野に繋がっていくのだが、専門的で頭に入りづらいところもある。
瀬戸内海地方の記述で、好天乾燥の気候がうどんの材料である小麦と塩と製造に最適なことや、瀬戸内海の潮流の速さと海峡の間にある灘の存在に明石鯛を始めとした魚介のおいしさの秘密があるなどの箇所も興味深い。
他にも山梨のワイン、富山のホタルイカ、宍道湖のしじみなどを、土壌の性質、軟水と硬水、発酵と麹菌、旨味の成分と絡めて説いている。
地震や地球の成り立ち、地形の解説は結構専門的で難解だが、食べ物がおいしい理由と一緒に説明されると比較的理解しやすい。山地と盆地、灘と瀬戸のように隆起域と沈降域が繰り返して分布する境界には断層があるため直下型地震のリスクが高いというのも理解できる。
日本人は豊かな食材の恩恵を受ける代わりに地震という厳しい試練もあるが、縄文の時代から営々と築きあげられてきた日本の歴史と文化には尊敬の念しかない。
八百万の神々に感謝する。
経済学者の宇沢弘文先生は「ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を安定的に維持する-このことを可能にする社会的資源が『社会的共通資本』である」と定義した。
この表現から国連のSDGs(持続的発展目標)を想起する。SDGsの17のゴールが有機的につながることによって誰一人取り残さない社会が構築され、この17のゴールを有機的につなぐものが、「社会的共通資本」という理論と言われている。
自然環境や電気や水道などの社会インフラ、教育や医療といった制度資本を、現在だけではなく、次世代にとっても社会の共通の財産として守り、持続的に維持管理をしていく。それが、定常状態、経済成長が右肩上がりでなくても成立するゆたかな社会をつくり上げることにつながっていく。
宇沢弘文先生の長女であり、内科医・宇沢国際学館代表取締役の占部まり氏は、
「父は「医療の本質は、サービスではなく信任である」ともよく言っていました。サービスであれば、お金を受け取った分だけ提供するという発想ですが、医師と患者は、「困った状態の時に、患者は信任し、医師に託す。医師はそれを受けてベストを尽くす」という関係にあります。突き詰めて言えば、インフォームド・コンセントも必要がないくらいの人間関係が出来上がることが、一番高い目標なのではないでしょうか。
医師をはじめとする医療集団がプロフェッショナルとして機能していれば、そこにかかる費用は全てカバーし、経済学者はそのためのシステムを作るべきだ」というのが父の主張でした。」と語っている。
https://www.m3.com/news/open/iryoishin/570832
2011年の東日本大震災の時、公営住宅は被災者の受け入れをしたが、旧雇用促進住宅は、2011年12月末の時点で5068戸、1万5千人が入居していた。
仮設住宅は災害救助法により給湯器やエアコン、照明器具、ガスコンロ、カーテンが設置される。
ところが旧雇用促進住宅は同法が適用されておらず、入居時はガスコンロと照明器具しか設置されておらず、エアコンも被災者からの要望で、やっと設置された状況だったと聞く。
2024年の能登半島地震を受けて、各地の公営住宅で被災者の受け入れを開始しているが、常設的な施設を一定程度保有管理し、維持することが必要なのではないかと思う。
2011年9月撮影
七尾市の道の駅・能登食祭市場
能登半島地震の後、出入り口や駐車場が液状化による
隆起や陥没の影響で被害が出ていて、
営業できない状況が続いているようです。
七尾湾
本屋で見つけて「しばらく鎌倉行っていないなぁ~」と思いながら立ち読みしたので本屋さんに悪いなと思い買ってしまった。
鎌倉は車も混むし、何しろ人が多くて疲れてしまうので、近くに用事も無いので敬遠している。
この本を見ると、公開しているが見ていない歴史的な建築物が幾つかある。
ドイツ式の洋館で現在は「石窯ガーデンテラス」というレストランは、ユーゲントシュティール風の装飾に彩られており、機会があれば見てみたい。
「吉屋信子記念館」も見てみたいと思った。吉田五十八先生の設計で一般公開日がある。
何しろ小説家の吉屋信子氏は、1936年(昭和13年)に東京に建てた住宅。戦災で焼けた後の住宅。晩年の鎌倉の住宅(吉屋信子記念館)の3回とも、吉田五十八先生に設計を依頼している。よほど相性が良かったのか、吉田五十八先生のモダン数寄屋に惚れ込んだのか。
若い時には見る事がかなわなかった数寄屋建築を見ておきたいと、昨年は堀口捨巳先生の「八勝館」を見学することができた。丁度 並行して吉田五十八先生に関する本を読んでいたので「吉屋信子記念館」も見学候補にあげておこう。
そしてもう一人、村野藤吾先生の数寄屋建築は、中々予約のタイミングが合わないのだが、そのうち見に行くことになりそうだ。
ともかく、今度鎌倉に行く機会があったら、この本をガイドに幾つかの歴史的建築物を訪れてみようと思う。
2011年9月撮影
能登半島地震で能登金剛ヤセの断崖の景観はどうなっているだろうか
2011年9月撮影
前田家ゆかりの日蓮宗・妙成寺
妙成寺
「境内の建物配置の特徴は、本堂を真ん中に、向かって右に祖師堂、左に三光堂という3つの御堂が横一線に並んだ点にあります。これは、古い図面などを見ると、近世以前、各地の日蓮宗(法華宗)寺院で見られたようですが、今でも建立当時の姿を残しているのは全国では妙成寺(みょうじょうじ)だけです。いにしえの法華宗寺院の配置を伝えるとても貴重な境内です」
この本は、2019年6月から2021年8月まで日本建築センターの機関紙「ビルディングレター」で連載されていた「海外諸都市における既存建築物の利活用による都市更新の広がり」の原稿を元に編集され2022年6月に出版された。
建築単体だけでなく都市的視点と重ねて見る事で、都市の更新技術としてのコンバージョン建築のあり方を論じている。
世界の諸都市は、その成り立ちそのものに様々な背景を持っている。それがどのような更新を遂げているのかを西欧、東欧、北欧、北米、オセアニア、アジアという広大な地域を取り上げており知見は豊富で有意義だ。
私も2023年より「まちづくり」の中の大規模な既存建築物活用プロジェクトに関わり、自ずと都市的視点の必要性を感じた。プロジェクトに合せて読み返していたのが「人間の街・公共建築のデザイン」ヤン・ゲール著や「ソフトシテイ」ディビッド・シム著だった。
そのプロジェクトに於いては、その地域のランドマークとなるような建物は、新築建替え(着工済)であるが、その地域がこれから変化する方向性を指し示めすメッセージ性を持っている。と他の設計者の担当だが、私はそう感じている。
私が関与しているのは、そのランドマーク的な建物の街区に連続する2棟の既存建築物のリノベーションだが、街区は異なるが連続性を強く意識した。
建築コンバージョン・リノベーションの価値は
があると言われている。
民間の商業的なプロジェクトでは、実用性が最も重視される。投資対効果、事業収支の実質利回り、既存建築物の多角的視点による潜在能力(ポテンシャル)の確認等である。
私は、学者でもなく、評論家でもなく、単なるデザイナーでもない。実践者の一人なので「実用性」を最も重視していている。
この本には、登場する建物の建築名リストと所在地がリンクされている。地図を見ていると その建物の都市の中の配置、景観的位置づけ等を読み取ることができ、ペーパーとデジタルの連携的な本の作り方は参考になった。
2011年9月撮影
能登國一宮・気多大社
2011年9月撮影・内部
これで能登島ガラス美術館の写真は終わり
能登半島地震で被災された地の復興を心からお祈りしております
僅かながら災害救援募金をしました。
蜻蛉(とんぼ)の暖簾を事務所にかけた。
古来より蜻蛉は攻撃性が高く勇敢という「勝ち虫」のイメージがあり、
その性質にあやかろうと縁起物として武士に好まれた。
特に戦国時代には兜や鎧、箙、鍔などの武具、陣羽織や印籠の装飾に用いられた。
前田利家は兜の前立に蜻蛉を用いていた。
そんなことで、蜻蛉の暖簾が京都からやって来た。
2011年9月撮影・ブリッジ
「八田利也」というのは私の恩師である建築史家・伊藤ていじ と建築家・磯崎新、都市計画家・川上秀光が架空の人物を装って使用していたペンネームです。
『現代建築愚作論』(八田利也、彰国社、1961年)は、学生時代に大学の図書館で読みふけった記憶がありますが、自分では所有してなかった本です。2011年に復刻されたのでようやく蔵書にしましたが、しばらく書棚に並んだままだったものを最近読み直しました。
「建築家諸君! せっせと愚作をつくりたまえ。愚作こそ傑作の裏返しであり、あるいは傑作へのもっとも確かな道である。愚作を意識してこそ建築家は主体性を確保し、現代の悪条件に抵抗する賢明な手段となる」
この本に掲載された「近代愚作論」のなかの一節で、「近代愚作論」は当時の建築家へのエールとして書かれたものですが、現代でも生きている「檄(げき)」だと思います。
八田は歴史的に傑作とされる姫路城や法隆寺、また数々の近代建築家の名作を引き合いに出しつつ実はそれらの建築には致命的な欠陥が含まれていること、しかしだからこそ傑作になり得たと指摘しています。そして建築家に向けて、失敗を恐れず愚作をつくり続けることが、傑作への道なのだと説いています。
創意に満ちた挑戦がその時代においては愚作となる建築を生み出してしまったものの、後世から振り返ると傑作と呼べるものになり得ているのだと。
しかし現代では こうした高邁な思想に基づく「八田利也」ではなく、失敗を恐れるばかりの者や自信過剰の「ハツタリヤ」も散見されます。
設計者と建築主の訴訟に登場するのは、正真正銘の「ハツタリヤ」設計者です。学校教育の影響でしょうか、自信過剰の「表現建築家」が多いのは哀しい事です。
2011年9月撮影
民間の建設工事において、最初から予算を明示してくれる建築主は少ない。
その理由は幾つかある。第一に工事費がどの程度かかるか検討がつかない場合。第二に工事費は安ければ安いほど良いと考え、不用意に伝達するとその工事予定額が目安となり見積金額の最低ラインが決まる可能性があるという心理が建築主側に発生するからだと言われている。
しかし設計者の立場で言うと、建築主はベンツが欲しいのかカローラが欲しいのかを聞きださないと設計ができない。建物の計画内容とコストは相互に関係するので、いずれかを決めないと仕事は前に進まないからだ。
何とかクライアントから工事予算を聞き出しても、その額が書類上は残っていない事が多い。それが民間建築では慣例的なもので、特に問題はないと思っていた。
ところが工事予算額を文書上残しておかなかったために建築主に不利に働いた事例がある。
裁判は形式的で、証拠が支配する。
以前関わった訴訟案件で、建築主はある特殊用途で容積率限度一杯の建物を設計者に依頼したが、基本設計は難航し当初契約より半年以上遅れた。その後建設会社から当初予算の2倍近くの概算見積が提出され、その後仕様変更しても1.5倍程度にしかならず、建築主は他の要因も重なり設計者に対する不信感が募り設計契約を解除した。
建築主は、実質的に基本設計が完了していないにも関わらず、設計者にほぼ当初の契約日時で基本設計料を支払済みだった。基本設計が難航し設計期間が延長した為に経済的に困窮したと設計者に泣きつかれたから支払ったのだと建築主は言ったが、後々その善意が仇となった。
設計者(原告)は当初契約日時で基本設計は終了しているのだから、その後の契約解除までの期間は実施設計であるとして損害賠償請求を起こしてきた。
建築主(被告)が依頼した弁護士から訴訟チームに参加するよう依頼され関与したのだが、建築主(被告)は法人なので、当然役員会等で工事予算を承認した文書はあるのだが、建築主(被告)から設計者(原告)に工事予算を明示した文書は存在しなかった。ゆえに設計者は工事予算の明示はなかったと主張した。
そして延床面積あたりの工事金額ではなく施工床面積あたりの工事金額では、さほど乖離が無いと主張してきた。そもそも「延床面積」は建築基準法に則った算定方法であるが、「施工床面積」は算定根拠そのものがあいまいで基準はなく、いかようにもできる算定面積なのだから信頼性が薄いものだと思うのだが・・・。
最終的には、建築主(被告)が不利な形で和解となった。
その後、建設工事は別の建設会社により設計施工で進められ無事竣工した。
【この訴訟案件からの教訓は】
・工事予算額を設計者に対して文書上明示したものの必要性。
・基本設計が実質的に未了状態であったのに、当初契約日時で支払ってしまったことにより、形式的に基本設計は完了しているものと裁判官は考えたようだ。
・設計期間が大幅に遅延していたのにも関わらず、設計監理契約の日時等変更事務を行っていなかった事
・第三者として俯瞰すると、基本設計の難航と遅延は特殊用途の建築物に対する設計者の経験不足に起因している。設計者の選定に関わる問題。
・設計者(特にアトリエ系設計事務所)は、工事予算をコントロールする能力が低下している
・その他 諸々
2011年9月撮影
年初頭に2021年のNHK大河ドラマ・渋沢栄一を主人公とする「青天を衝け」をHuLuで一気見した。自分は、ほとんどテレビを見ないので今頃配信されたものを見るしかない。
今更2021年の大河ドラマの話題なのと言われるかもしれないが、一気見した方が全容を掴みやすいように思っている。もつとも数日で全部見るので少し疲れる。
2022年に仕事で何度か深谷市を訪れていた。深谷市ではどこへ行っても「渋沢栄一」の写真と名前を見ていたので、気になる存在だった。
渋沢栄一の時代は、幕末から昭和初期で、私からだと曽祖父母・直系3親等の時代になるかもしれない。私が生きてる顔を見た事があるのは、母方の祖母の晩年だけで、幼少の時に時々お小遣いを貰った記憶しか残っていないので、曽祖父母の時代なんて全く実感がわかない。
ネットで登場人物を検索しながらのドラマを見ていた。平岡円四郎、徳川昭武、高松凌雲、武田耕雲斎、橋本佐内、等々。 彼らは綺羅星のごとくあり、八百万の神とさえ思ってしまった。
ドラマを見て歴史、政治、経済のお勉強になった。学校では学べない統合的な知識を得ることができた。
さて、幕末から昭和の時代というのは、本当に激動の時代で、あの時代に自分が生きていたらどうしただろうかと考えてしまった。農民や町民、下級武士だったとしても尊王攘夷にかぶれて、テロリストみたいになって切られて早死にしたのではないかと思う。時代が動く変革の時代を生き抜くのは、とっても大変そうだ。
時代が動く時に生き残れるのは、専門知識・ひとりでやれる能力、技術を持っている人のようだ。幕末から明治にかけては、語学・医学・算術等の専門家や旧幕臣の海外渡航者が、官吏として重用されているのを見ると大いに参考となる。
『表題「青天を衝け」は、渋沢自身が内山峡(長野県佐久市)を旅した際に詠んだ漢詩の一節「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」(意:青空をつきさす勢いで肘をまくって登り、白雲をつきぬける気力で手に唾して進む)から取られた。』とウキペディアに書かれている。
元気を貰えたドラマだった。
これからも「青天を衝く」爺婆であろうと話していた。
2011年9月撮影
2011年9月の撮影
2011年9月の撮影