山門と明治天皇駐蹕之処の碑
太鼓楼
今井町の成立は、戦後時代、天文年間(1532~1555年)に、この地に一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって寺内町が建設されていたことに発し。一向宗の門徒が御坊(称念寺)を開き、濠をめぐらせ、自衛上武力を養ったとパンフに記載されている。
今井町の500軒もの町家は、大半が江戸時代初期の民家の伝統様式を保持している
建築法務/ 建築ストック再生・活用 /長寿命化/ 環境建築 / 建築設計監理 / ㈱寺田建築事務所・一級建築士事務所
4/24 「自立循環型住宅へのガイドライン・入門編」国土技術政策総合研究所・建築研究所監修の講習会に参加して来た。 「エネルギー消費50%削減を目指す住宅設計」として2005年(H17年)に発表されたガイドラインで、掲載されている情報は若干古かったが、講師の野地政宏さんの話は、実務者の側に寄り添った講義でとても有意義だった。
このガイドラインの技術的内容は、住宅金融支援機構のフラット35やエコポイント等で すでになじみのあるものが多かったが、住宅のパッシブデザインを検討する上では、とても参考になった。 建築の設計を進めていくうえで、エネルギーに関するシュミレーションツールを使いながらスタディするのは、あたりまえの時代になってきている。 野地さんは、スケッチアップを使った日照の内外部の3Dシュミ―レーションを見せてくれたが、日影図等の二次元的なものだけではなく、建築主にもわかりやすい3Dを使いこなすことが必要となるだろう。
住宅のパッシブデザインは、自然エネルギーを上手に利用していくということになる。 学生時代の民家の調査・研究から始まって、卒業時は「エネルギーと建築形態」というテーマを持っていたのだが、日常業務に追われ、いつかしか忘れていた。
3.11以降、「エネルギー」と「本当の豊かさ」について考えることが多い。
「死」を意識し始めた年齢になってきて、残された時間に何をテーマにしていくか模索中でもある。
もう、設計そのものの実務からは10年以上離れてしまったが、小さなパッシブデザインの住宅を設計し、できるだけ自分の手で施工してみたいという願いは捨てきれないでいる。
それにしても、たまの講習会に出席すると疲れる。
次回のゼミは「温熱環境の基礎~断熱と日射熱取得~」の計算方法を学ぶ。楽しみだ。
学生時代に今井町を訪れて以来だから、
もう何十年経っただろうか
今井町まちなみ交流センター「華甍」
(旧高市郡教育博物館)
この建物は明治36年(1903年)に高市郡教育博物館として建てられ
昭和4年より今井町役場として使用されていた。
現在は、今井町の歴史を解説する資料館
雨が降っていたので 資料館には長居せず今井町の街を歩いた
裏側の駐車場から
今井町を歩いている途中で晴れてきた
この写真は到着したころ
学生時代に今井町を訪れたのは、研究室で見聞きしたのがきっかけだったと思う。当時は電車とヒッチハイク(今では中々難しいだろうけど)で全国の建物や街並みを見て回った。
食べるものも食べず、駅や公園で寝泊まりし、ひたすら建築を見て回った頃が懐かしい。それが身についたかは別だが。
恩師・伊藤ていじ先生が、東京大学助手時代に関野克先生とともに調査に来られ
それが契機のひとつとなり
今西家(昭和32年指定)が重要文化財になり
平成5年に重要伝統的建造物群保存地区に指定され
現在の今井町の街並がある。
【東大寺大仏殿に至る塀】
律令制度における造営・修理事業は、内裏は造宮省・修理職・木工寮が、寺院は造寺司が管轄して、諸国からの庸・調を財源として事業を行った。一方、神社の場合には造宮使が管轄して、神税を財源として事業を行っていた。
国家的規模の寺院や神社の建造・再建・修復には、たいていは「成功」(じょうごう)あるいは「造国」(ぞうこく)という制度がとられていた。
「成功」(じょうごう)とは朝廷の公事・行事及び殿舎の営繕、寺社の堂塔修造費用など本来、朝廷の公費で負担すべきところを、任官希望者を募って任料を納めさせるか、または自己負担でそれぞれの事業の功を成らせて、見返りに官職に叙任するという売官制度の一種である。
「造国」(ぞうこく)とは、平安時代中期から南北朝時代にかけて、内裏や寺社などの造営・修理の負担を割り当てられた国のこと。その責任者となった造国の国司(受領)を造国司(ぞうこくし)という。受領国司に財源をまかなわせ、国司は任国内の税物を加徴できるようになっている。これはうまくすれば収入の一部を私物化できるので、希望者も多かったようだ。
東大寺で思い出したことだが、重源は東大寺再建の時 国家予算で建築を主導したわけではない。
「知識結」(ちしきゆい)という方法である。
各所に「知識」(ちしき・智識とは、仏教の信者が善業を積み重ねるために寺院や仏像の建立や維持、写経や福祉などの事業のために金品などを寄進すること。また、寄進者や寄進物を指す場合もある。)を結び、これをネットワークする「勧進聖」を募り、これらを組みあげながらプロジェクトを進めるという方法である。そのリーダーを「大勧進」といった。大勧進は事業計画のすべてをまかされ、立案と予算の執行権をふるうことができ、知識物(これらは進退・進止とよばれた)を自由に差配することができるが、無報酬となる。
重源は東大寺再建を成した後「大和尚」の称号を与えられているから名誉と報酬は、後からついてきている。
「知識結」は、現代的に言うとNPOと言えるかもしれない。
東大寺というと私は恩師・伊藤ていじが晩年に書いた小説・評伝「重源」を思い出す
先生が論文でなく小説を書いたと驚き、急ぎ買い求め
「重源」(新潮社刊)を読んだ記憶がある。
治承4年(1181年)、平家の南都焼き打ちで東大寺が燃えた。
その再建に法然が駆り出されようとしていたが、法然はたくみにこれをすりぬけた。
そこで無名の重源が造東大寺大勧進に抜擢されることになる
重源61歳のときである。
国宝・金銅八角燈籠
現在の大仏殿は江戸時代(元禄4年、1691年)に再建されたもので
正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m
「東大寺要録」の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、
幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、
高さ12丈6尺(約37m)、柱数84という
奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、
幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている
仁王門
奈良県庁に車を止めていたので、仁王門には行かず
美術館 の脇を歩いて帰った
桜の花弁が舞い落ちて
もう一度「重源」を読み直してみよう。
奈良県庁
丹下健三の香川県庁舎を踏襲したような、戦後モダニズムを彷彿させる建物
何となく懐かしいというか・・・。
今回は、建物の見学記録(後で建物の写真は掲載)ではなく、仕事の記事。
「遊んでばかりいるんじゃないの」と言われる事があるので
完了検査済証を取得していない建物について、奈良県庁建築課に御相談に行きました。
奈良県は「既存建築物の法適合性の確認の取扱い」というのを
平成25年6月に制定していたので、今回具体的プロジェクトについて打合せをしてきた次第
これから種々の調査・非破壊検査をすることになるが
法第12条5項報告の提出となりました。
添付する様式は、大阪府のものを参考にしたように思える
それにしても現行法上は12条5項で処理するのが最適と思うが
なかなか やってくれない行政が多いんだよね~
(愚痴)
奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳
石舞台古墳に着くなり霰が降ってきた。
埋葬者は蘇我馬子というのが有力視されているが、
蘇我稲目の墓という説もあるらしい
長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、
その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。
蘇我馬子が埋葬者としたらその孫にあたる蘇我入鹿が
中大兄皇子(後の天智天皇)らに暗殺され
蘇我氏本宗家が滅びた「乙巳の変」(645年)の後
封土が剥がされ墓が暴かれたのは、
蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もあるが
ボランティアガイドさんから聞いたところによると
近くの農民が畑の土にした、
石棺の石は江戸時代に城の石垣に使われたと言っていた。
血脈が途切れる、墓守がいなくなるということは寂しいことだ。
先頃、某指定確認検査機関から立派な体裁のダイレクトメールが郵送されてきた。
千葉県に本拠地がある指定確認検査機関が新宿の超高層ビルに新たに事務所を開設したという営業案内で、御丁寧に「ご来店記念品引換券」が同封されていた。
千葉県から始まって 東京、埼玉、神奈川に支店網を築き上げ、社員は200余名という規模になったとある。
数日後
この指定確認検査機関の女性から電話がかかってきた。
ダイレクトメールを郵送したところには電話営業をしているようだが、住所や電話番号は、設計事務所登録のリストから抽出しているのだろうか。
ダイレクトメールの宛名は、弊社が法人にする前、一年余り個人で設計事務所登録していた時の名称で郵送されてきていた。
関東地方整備局指定で、戸建て中心だと聞いていたので これまであまり関わりのなかった指定確認検査機関だったが、新宿事務所は大規模推進事務所らしくマンションなどの特殊建築物を主体に審査していきたいらしい。
巷の話を聞くと、この会社だけでなく相変わらず指定確認検査機関の申請料の値引き、営業攻勢は活発らしい。
東北の震災復興の山は越えた。次は2020年東京オリンピックに向けた東京の民間投資に営業的活路を見出そうという動きなのかもしれない。今後、首都圏の指定確認検査機関の競争も一層激化していくのだろうか。
ところで、くだんのダイレクトメールには「建築プロジェクトの最上のサービスを目指す」とある。
指定確認検査機関の最大の顧客とは、デベロッパーや建設会社、ハウスメーカー、住宅会社、設計事務所等の「業者」であるから、「業者」へのサービスが顧客サービスとなるのだろう。
業者にとって指定確認検査機関から受けたいサービスとは何だろうか。
「審査期間を短く」「審査・検査料金を安く」「質疑はまとめて一回だけ」「計画段階からの適切なアドバイス」「法的取扱いの柔軟な対応」・・・
建築確認申請・諸々の審査・検査を扱う「建築基準法の番人」であるべき指定確認検査機関が、建物に住む人、利用する人ではなく、往々にして業者しか見ていないのはいかがなものだろうか。
業者へのサービスを重視すればするほど、諸刃の刃で指定確認検査機関の存在が危うくなる要素を秘めているのだが、ここでは あまり書くのは止めておこう。
日本建築行政会議の倫理憲章には下記のようにある。
(社会的責任の認識と信頼の確立)
1 指定確認検査機関等は、建築基準法の目的を十分に認識して、指定確認検査機関等のもつ社会的責任と公共的使命の重みを自覚し、常に厳正に確認検査業務等を行うものとする。
(法令やルールの厳格な遵守) 2 指定確認検査機関等は、建築基準関係規定の法令やルールへの違反が、確認検査制度全体の信頼を失墜させることを認識した上で、これらを遵守し、社会的規範にもとることのないよう、公正に業務を遂行する。
果たして業者の顔しか見ないで、社会的責任と公共的使命を達成できるだろうか。
本堂へと続く長い登廊(階段)
蹴上(段差)は低く、平地を歩く感覚に近い
この登廊からの風景が変化して楽しい
登廊から陀羅尼堂を見る
宗宝蔵あたり
この登廊は、平安時代・長暦3年(1039年)
春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の
御礼に作ったものと造ったと記されている
108間、399段
上中下の三廊に分かれている
下・中廊は、明治27年(1894年)再建