東京大学弥生講堂アネックス/セイホクギャラリー -1

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東大農学部の正門左側にある建物が東京大学(農学部)弥生講堂アネックス/セイホクギャラリー

道路から見える姿が、きれいで見てみたいと思っていた。

写真は農学部の門

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DSCF9430_R深い緑の世界に木材を多用した建物、さすが農学部

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雨が降っていたのでより艶がある(色気)感じが出ていた。

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LVLの木質シェル構造のセイホクギャラリーとエンゼル研究棟の幾何学的建物が一つになっているのだが、違和感がない。

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1階は講義室で、直接2階に上がれる階段があったから、2階は研究室になっているようだ。

「建築・新しい仕事のかたち~箱の産業から場の産業へ」

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一般社団法人住宅医協会設立記念講演会「建築・新しい仕事のかたち~箱の産業から場の産業へ」東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授の松村秀一先生の講演を聞いてきた。

東京大学(農学部)弥生講堂アネックス/セイホクギャラリーという木造シェル構造でできている建物が会場だった。

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松村先生の話は刺激的だった。

日本の産業構造が「ハコの産業」から「場の産業」=「より望ましい生活を展開する『場』を構成するあるいは提供する産業」に一大転換している時代と位置づけられた。

「新しい仕事のかたち・七つの要素」として

  1. 生活する場から発想する
  2. 空間資源を発見する
  3. 空間資源の短所を補い長所を伸ばす
  4. 空間資源を「場」化する
  5. 人と場を出会わせる
  6. 経済活動の中に埋め込む
  7. 生活の場として評価する

をあげられ、具体的事例を紹介されていた。

私達が目指している仕事の方向が、あながち間違ってはいないのだなぁと思った。

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刺激的な空間で刺激的な話を聞けれて脳が活性化した一日だった。

新国立競技場の基本設計が発表された。

 

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5/28 新国立競技場の基本設計が発表された。

国際コンペの時よりコストの見直しがされ、規模も縮小されたようだ。基本設計の詳細は下記のサイトに公表されている。

http://www.jpnsport.go.jp/newstadium//tabid/411/Default.aspx

このところ新国立競技場のニュースが飛び交っていた。

5月12日には、建築家の伊東豊雄氏が、国立競技場の建て替え計画に異を唱え、現競技場の改修案を発表した。

【スタンドを複層化、伊東豊雄氏が国立の改修案 】

http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20140516/663049/

又、JIA・日本建築家協会が国立競技場解体延期の要望を出している。

【国立競技場の解体延期を要望、JIA 】

http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20140523/664070/?rt=nocnt

等、多方面から解体延期、改築ではなく増築・改修の要望が出ていた。

そんなところ5/31のファイナルディを前に基本設計が発表されたわけだが、基本設計を見て個人的にはがっかりした。

なんだか ずいぶんとずんぐりむっくりして 躍動感がない。

自転車競技用のヘルメットから工事現場用ヘルメットになったような・・・。

この基本設計だと、歩行者の視線ではボリューム感だけが強調されるような気がする。やはり8万人収容にこだわるとこうなっちゃうのかなぁ~。

個人的意見は、もともと56年ぐらいで建物を壊して改築してしまうのには賛成できないし、オリンピックのスタジアム基準は6万人だから、増築等をすれば良いと思っていた。

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一方、ザハ・ハディド・アーキテクトの設計なら完成を見てみたいという気持ちもあったけど、最初から予算額の倍になりそうなデザインだから・・・

それでも新しい未来を切り開いていくような躍動的なデザインにはしびれた。

もともとこのコンペは、応募要領でデザインコンペで設計コンペではないとあったけど、ザハ・ハディド・アーキテクトはデザイン監修という立場になり、基本設計は、日建設計・梓設計・日本設計・アラップ設計共同体。

http://www.jpnsport.go.jp/corp/chotatu/tabid/117/Default.aspx

お上が決めたことには逆らえない風潮が日本にはあるが、市民は発言しないと。

 

奈良県立・万葉文化館 -4

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万葉文化館内にあるパンカフェ・Sizin

水出し珈琲の香りに誘われて入った

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シンプルな内装

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室生天然酵母パンと、
飛鳥で採れた新鮮なお野菜を合わせたランチメニュー(Aランチ)

これに水出し珈琲がつく

とてもレベルの高い食事に出会えた。

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「室生天然酵母パン」

http://sizin.jp/

奈良県立・万葉文化館 -3

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この万葉文化館建設にあたり約9500m2の調査区域を設定して平成10年(1998)に調査を開始すると、7世紀後半の石組み方形池遺構や石敷き井戸跡のほか、金・銀・銅・鉄・ガラス工房と思われる遺構やるつぼ、金属製品などの遺物、7500点以上の木簡、大量の土器類が出土した。と資料に書かれている。

この万葉文化館の中庭は工房遺跡の復元レプリカで本当の遺跡は、この下に眠っているらしい。

33枚の富本銭が出土している。

今で言うと大蔵省造幣局+職人・芸術家コロニー的な工房遺跡があったようだが、その遺跡は ほんの少ししか残っていないようだ。

「文化財保護」か「開発」か難しいところ

飛鳥は、どこを掘っても遺跡があると言われているし

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内部

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展望ロビー

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展望ロビーからの飛鳥の風景

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 この万葉文化会館の展示は、中々面白い。

万葉集の世界が堪能できることは間違いない。

それと、資料室やミュージアムショップが充実していた。

【奈良県立・万葉文化館】

http://www.manyo.jp/

 

奈良県立・万葉文化館 -2

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ポーチ屋根の下

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飛鳥寺へも歩いて行ける。

飛鳥寺は、蘇我馬子が596年に建立した日本初の本格的寺院

法興寺、元興寺とも呼ばれる

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今は、江戸時代に再建された小さな伽藍がある

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再び、万葉文化館のポーチ

朝10時開館の前に駐車場に着いていたので、うろうろしていた。

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陽がさし 風にたなびく竹林

万葉文化館の駐車場周辺の風景

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飛鳥にも桜咲く頃(この写真は4月上旬)

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今井町・今西家

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今西家住宅・昭和32年重要文化財指定

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今井町の惣年寄の筆頭をつとめていた家で

今井町を代表する建物

城郭のような構造で別名「八つ棟造り」と呼ばれている

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ところで、ここ今井町はNHK連続ドラマ「ごちそうさん」(朝ドラ)の大阪天満周辺の街並みとしてロケが行われた。

この今西家の前もドラマの中でヒロインが季節の挨拶回りをするシーンの背景になっている。

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今井町 – 称念寺

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山門と明治天皇駐蹕之処の碑

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太鼓楼

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今井町の成立は、戦後時代、天文年間(1532~1555年)に、この地に一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって寺内町が建設されていたことに発し。一向宗の門徒が御坊(称念寺)を開き、濠をめぐらせ、自衛上武力を養ったとパンフに記載されている。

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今井町の500軒もの町家は、大半が江戸時代初期の民家の伝統様式を保持している

 

今井町 – 今井まちなみ交流センター「華甍」

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学生時代に今井町を訪れて以来だから、

もう何十年経っただろうか

今井町まちなみ交流センター「華甍」

(旧高市郡教育博物館)

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この建物は明治36年(1903年)に高市郡教育博物館として建てられ

昭和4年より今井町役場として使用されていた。

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現在は、今井町の歴史を解説する資料館

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雨が降っていたので 資料館には長居せず今井町の街を歩いた

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裏側の駐車場から

今井町を歩いている途中で晴れてきた

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この写真は到着したころ

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学生時代に今井町を訪れたのは、研究室で見聞きしたのがきっかけだったと思う。当時は電車とヒッチハイク(今では中々難しいだろうけど)で全国の建物や街並みを見て回った。

食べるものも食べず、駅や公園で寝泊まりし、ひたすら建築を見て回った頃が懐かしい。それが身についたかは別だが。

恩師・伊藤ていじ先生が、東京大学助手時代に関野克先生とともに調査に来られ

それが契機のひとつとなり

今西家(昭和32年指定)が重要文化財になり

平成5年に重要伝統的建造物群保存地区に指定され

現在の今井町の街並がある。

「成功」「造国」「知識結」

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【東大寺大仏殿に至る塀】

律令制度における造営・修理事業は、内裏は造宮省・修理職・木工寮が、寺院は造寺司が管轄して、諸国からの庸・調を財源として事業を行った。一方、神社の場合には造宮使が管轄して、神税を財源として事業を行っていた。

国家的規模の寺院や神社の建造・再建・修復には、たいていは「成功」(じょうごう)あるいは「造国」(ぞうこく)という制度がとられていた。

「成功」(じょうごう)とは朝廷の公事・行事及び殿舎の営繕、寺社の堂塔修造費用など本来、朝廷の公費で負担すべきところを、任官希望者を募って任料を納めさせるか、または自己負担でそれぞれの事業の功を成らせて、見返りに官職に叙任するという売官制度の一種である。

「造国」(ぞうこく)とは、平安時代中期から南北朝時代にかけて、内裏や寺社などの造営・修理の負担を割り当てられた国のこと。その責任者となった造国の国司(受領)を造国司(ぞうこくし)という。受領国司に財源をまかなわせ、国司は任国内の税物を加徴できるようになっている。これはうまくすれば収入の一部を私物化できるので、希望者も多かったようだ。

東大寺で思い出したことだが、重源は東大寺再建の時 国家予算で建築を主導したわけではない。

「知識結」(ちしきゆい)という方法である。

各所に「知識」(ちしき・智識とは、仏教の信者が善業を積み重ねるために寺院や仏像の建立や維持、写経や福祉などの事業のために金品などを寄進すること。また、寄進者や寄進物を指す場合もある。)を結び、これをネットワークする「勧進聖」を募り、これらを組みあげながらプロジェクトを進めるという方法である。そのリーダーを「大勧進」といった。大勧進は事業計画のすべてをまかされ、立案と予算の執行権をふるうことができ、知識物(これらは進退・進止とよばれた)を自由に差配することができるが、無報酬となる。

重源は東大寺再建を成した後「大和尚」の称号を与えられているから名誉と報酬は、後からついてきている。

「知識結」は、現代的に言うとNPOと言えるかもしれない。

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東大寺大仏殿 -3

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東大寺というと私は恩師・伊藤ていじが晩年に書いた小説・評伝「重源」を思い出す

先生が論文でなく小説を書いたと驚き、急ぎ買い求め

「重源」(新潮社刊)を読んだ記憶がある。

治承4年(1181年)、平家の南都焼き打ちで東大寺が燃えた。

その再建に法然が駆り出されようとしていたが、法然はたくみにこれをすりぬけた。
そこで無名の重源が造東大寺大勧進に抜擢されることになる

重源61歳のときである。

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国宝・金銅八角燈籠

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現在の大仏殿は江戸時代(元禄4年、1691年)に再建されたもので

正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m

「東大寺要録」の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、

幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、

高さ12丈6尺(約37m)、柱数84という

奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、

幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている

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仁王門

奈良県庁に車を止めていたので、仁王門には行かず

美術館 の脇を歩いて帰った

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桜の花弁が舞い落ちて

もう一度「重源」を読み直してみよう。

東大寺大仏殿 -1

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中門

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東大寺大仏殿に来たのは三度目

修学旅行のとき

大学生の時、このときは昭和の大修理中だった

そして今回

まだ桜の花が残っていた

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東楽門

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やっぱりデカいわ

それでも、これは1709年に再建された時のもので、

創建時の2/3に正面幅を縮小したものというから驚きだ

8世紀にこれだけのものを造れる技術があること自体スゴイ