永田町の砂防会館から麹町に向かう道、貝坂通りに面したJA共済ビルの外溝
江戸時代 平河町は武家屋敷が連なる緑豊かな城下町だった(本当かは知らない)と本に書いてある。
1863年に長州藩は下関海峡を渡る米国商船を襲い、翌年英・仏・米・蘭の四カ国連合軍から砲撃を受け、長州軍は壊滅した。
世に言う下関戦争である。
この講和に長州藩から抜擢されたのが、高杉晋作(正史)、杉孫七郎(副使)、伊藤博文(通訳)であったが、このJA共済ビルは杉孫七郎の屋敷跡である。
永田町(南側)から麹町(北側)に向かって道は下がっている。
北西の平河町レジデンスにアプローチする階段
どこかで見たことがある気がするが、しゃれた階段になっている。
ちなみにJA共済ビルと平河町レジデンスからなる街区は、「みどりコート平河町」と名づけられているらしく2011年2月に竣工した。
設計監理・日本設計
施工・竹中工務店