天平九年(737年)、藤原不比等の息子である藤原四子が疫病(天然痘)で相次いで死去し、同年橘諸兄政権が成立した。この時藤原氏は、不比等の孫である藤原豊成(武智麻呂の長男)が12月に参議に補充されただけだった。
開けて天平十年(738年)正月、阿倍内親王が皇太子に立てられた。
「太上天皇制」は、大宝律令で法制化した措置で、文武天皇が即位した際、若年と経験不足ゆえに、天皇個人にのみに権力を集約させず、天皇に親権を及ぼす太上天皇、天皇生母、天皇生母の近親者(外戚)等から構成され共同統治を行ってきた。持統と文武は祖母と孫であった。太上天皇という制度は、天皇と同格の君主として扱われ、法制化された地位で、日本独自の制度と歴史書では書かれている。この太上天皇制について知らないと、古代歴史小説は、よくわからないだろうと思う。
藤原仲麻呂(恵美押勝)が聖武天皇の後押しで政権内の地位を高めていく中で、仲麻呂の後見する阿倍皇太子と諸兄の後見する安積親王のいずれを正当な皇位継承者とするか攻防が熾烈になる。ここで天平十六年(744年)、安積親王は17歳で仲麻呂が留守官の恭仁京(くにきょう)で急死する(「続日本記」)。
日本も又、古代歴史では天皇の皇位継承をめぐって常に策謀が巡らされ、血が流されてきた。この本を読んでいると、まるで韓国や中国の歴史ドラマ、映画を観ているような気持ちになった。
天平勝宝元年(749年)7月、阿倍皇太子が即位し未婚の女帝・孝謙天皇が誕生した。ここから仲麻呂独裁政権への進撃が始まる。
孝謙天皇と藤原仲麻呂(恵美押勝)の衝突と分裂は、孝謙天皇と道鏡の関係から始まっている。歴史書では「寵幸」(ちょうこう)(特別にかわいがられること。寵愛をうけること)と書かれるが、この小説の中では、男を知らなかった女と女を知らなかった男(僧)の艶めかしい物語として紡ぎ出されている。
そして、臣下が王権に組織的な軍事力で対抗した「恵美押勝の乱」に突き進み、藤原仲麻呂(恵美押勝)は古代社会最大の反逆者として歴史に名を残した。