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建築法務/ 建築ストック再生・活用 /長寿命化/ 環境建築 / 建築設計監理 / ㈱寺田建築事務所・一級建築士事務所
無印良品の新シリーズ・縦の家をながめていた
中央にシースルーの階段を配置し、最上部にトップライトを設置して採光をとっている。
三階建ての住宅としては、さほど新鮮味のある平面計画ではない。今までも多くの設計者が採用しているのではないだろうか。
まあ 1階の寝室は右側窓から採光(法的な)をとるのは難しいそうだ。敷地条件によっては2階のダイニングキッチンも採光(法的な)はOUTになるかもしれない。
このベースプラン(3.64m×8.19m)の場合、各階の床面積は
1階:23.18m2 / 2階:29.81m2 / 3階:29.81m2 / 計:82.80m2となっている。
現行法では、階をまたいでは採光をとることができないが、このように三層吹き抜けで階段部に間仕切りがない連続的な空間が構成されている場合で、階段最上部あるいは階段壁面部に採光に有効な開口部があるときは隣地境界線側に採光に有効な開口部を設けなくても実際のところ採光が得られるのではないだろうか。
試算してみると
1階必要採光面積(概略) 23.18m2×1/7=3.32m2
2階必要採光面積(概略) (29.81m2-13.24m2)×1/7=2.37m2
3階必要採光面積(概略) (29.81m2-13.24m2)×1/7=2.37m2
・2階リビング、3階サンルーム水回りを3.64m×3.64m=13.24m2として、道路側であろう開口部より採光が確保されるものと仮定した。
階段最上部のトップライトは、どの程度の開口面積があれば三層の有効採光を確保できるであろうか。
3階 2.37m2÷低減率=無 =必要採光面積 2.37m2
2階 2.37m2÷低減率=0.8 =必要採光面積 2.97m2
1階 3.32m2÷低減率=0.7 =必要採光面積 4.75m2
合計 10.09m2÷3(トップライト) = 必要採光面積 3.37m2
1間角強のトップライト面積が必要となるが、少し大きすぎるというか、暑くてたまらないかなぁ・・・ 階層による低減は必要ないのかもしれない。
低減無だと、
合計 8.06m2÷3=2.69m2
これで1.6m角程度だから低減しなくてもよいかもしれない
是非、無印良品さんにはモデルハウス等で実際の照度計測をしてもらいたいものだ。
【無印良品・縦の家】画像は下記のサイトから拝借しました。
2014年日本建築学会賞・論文賞を受賞した名城大学の溝口教授の著作である。
法隆寺の造形尺度や寸法計画について、伊藤忠太の柱間比例決定説や関野貞の柱間完数制説などの既往の研究を詳細に分析検討しその問題を指摘しつつ、建物全体の規模計画に注目している。
まさに労作であり、学会賞受賞にふさわしい著作だと思う。
私は、日本建築史の専攻ではないが、学生時代には法隆寺の再建・非再建論争には関心があって 幾つかの論文を読んだ記憶がある。
法隆寺非再建論を主張した関野貞の論拠の一つが、法隆寺は「高麗尺」によって設計されたというものであった。
以来、建築学会の中では「唐尺」か「高麗尺」かという議論があったが古代史研究の中では、新井宏氏が「まぼろしの古代尺・高麗尺はなかった」(吉川弘文館刊)の中で「古韓尺」という尺度を日韓の数多くの遺跡、寺院の資料から提示されている。
この「古韓尺」は尺=26.7cmである。
尚、一般的には大宝律令の大尺(高麗尺に由来)は、35.6cm
小尺(唐尺に由来)は、29.6cm
現尺は、30.303cmである
溝口先生は、唐尺を現尺の0.987程としているから29.91cmとしているようだ。
法隆寺の設計尺度として高麗尺では説明しきれなかったし、私の中では「古韓尺」がもっともすっきりしていた。ここにきて溝口先生が「唐尺」という説を出されて「百年の議論を終結」と言われても・・・
今、この本に記載されている法隆寺の寸法を時間を見て自分なりに検証してみている。
それにしても法隆寺は、ため息がでるほど美しいのだ。
私は法隆寺の五重塔が、日本で一番美しい五重塔だと思っている。
美しい建物や仏像は、学徒を虜にする。
H25年度・(社)建築研究所の講演会「制度的・技術的側面からみた建築ストック活用促進のための研究」のテキストを読んだ。
材料研究グループの濱崎主任研究員の研究成果で、これを読んでストック活用の問題点は徐々に整理され、実務的研究が進んできているという感想を持った。
「あと施工アンカーの長期性状」「耐久性を確保するためのかぶり厚さの確保」(ポリマーセメントモルタル)「建築ストック活用手続きのための建物調査・確認」の三項目は、実践的課題だ。
「建物調査・確認」については建築研究所で、マニュアル案を取りまとめ中とあるが、完了検査済証未取得建物の調査・確認にも触れているのが心強い。
ストック活用のためには完了検査済未取得建物の問題は、避けて通れない。
調査方法や確認方法、評価方法は件数が増えていくに連れて徐々に収斂され確立していくだろうが、現在大きな問題としては、基礎・杭の確認方法と評価をどうするかという問題を抱えている。
掘削できれば基礎の根切深さ、配筋探傷、コア抜きができるし、杭頭を明らかにすることぐらいはできるだろう
掘削できないような密集市街地では、基礎の確認と評価をどうするか?
頭が痛くなる・・・
http://www.kenken.go.jp/japanese/research/lecture/h25/index.html
よ‐じょう【余剰】 必要分を除いた残り。剰余。余り。「人員に―が出る」「―価値」「―米」 大辞泉
建築基準法の取扱いで出てくる「余剰空間」は、例えば小屋裏物置等の取扱いについて見られる。 上記のように床下・天井裏・屋根裏などの、もともと作ろうと意図したところの「形」の中で機能性を持たなかった部分として捉えられているようだ。
ようするに余剰空間という意味は、計画当初の機能を持つことが出来ない空間や、機能が明確に想定されない空間のことであり、不本意に余ってしまった対象と言える。
このような機能配置の計画外に残されてしまう余剰空間は、使用上の寸法や動線や機能などの様々な問題によって多かれ少なかれ発生するものであり、その余剰空間をどう扱うかは建築計画論的にも法的にも課題の一つであるように思う。
余剰空間は、上記の図のような建築基準法の概念として活用されているが、現代の建築空間は切妻や片流れような固定的形態だけでなく、様々な形態として現われる。従来の固定的「形」では判断さえつきずらくなっている。
都心では道路斜線・高度斜線・日影規制などの集団規制の制限を受け、そこに天空率や高さの緩和、平均地盤の調整等を駆使し複雑な、ときに異様な突出した建築が現われる。
前面道路が法第42条第2項(4m未満の道)等の細街路で、木造二階建てが地域の街並みを形成する建物のボリュームのところに、突如4階建てと錯覚するような木造3階建てが建築され、周囲があわてることもある。これは元々総合設計制度という大規模建築に適用されていた天空率という手法を、すべてに適用した為だ。
敷地には、幾つも建築基準法の規制による建築可能な空間領域があり、その見えない空間領域が、建築可能な形態の制限となる。
ある一定以上の面積や道路幅員をもつ場合は、その建築可能な空間領域を余剰空間として捉えることができないであろうか。
これは 仮説的提案である。
追記
上記記述は、若干 論旨不明確でした。
前面道路が法42条2項道路等の細街路には天空率の適用は止めるべきで、そうでない場合は、法的可能な空間領域内は余剰空間として突出型のロフト・小屋裏収納等は認めていいのではないかというものです。
長女が集めていた御朱印帳に刺激され、出張の都度、社寺仏閣を訪れ御朱印をもらっていたら、1年弱で二冊目になった。
「最近の趣味は御朱印集め」と言うと、意外と驚かれる。
つい1年ほど前は、無神論者だった。二回の手術を経て、麻酔から目覚めてから「死」を意識するようになったからだろうか。それとも意識せざるを得ない年齢になったということだろうか。
始めは、記念スタンプ集めぐらいのつもりだったが、「御朱印とは宝印」と言われてから、神社や寺のいわれを調べるようになった。
そのうち神社について強く関心を持ち、自然と古事記、日本書紀、その他の関連する古代史関係の本を読むようになっていった。
もともと中学生の頃は、松本清張という古代史研究者のような小説家の本を読んでいたので古代史は嫌いではなかった。
そして、今は日本の国家の成立過程である古墳時代へと興味は広がっている。
今月初め奈良から東京へ夜の高速道路を500km程走り、首都高に乗ったらタイムスリップしたような感覚に襲われた。その晩みた夢は、神様たちとダンスをしているものだった。
建築の仕事に関わっているからか、古墳や社寺が、どのようなスケール(物差)で作られたかということには強い関心がある。文献史や一般的な考古学の図書では、あまり数値の記載は多くないが、「物差」は、その民族・文化的反映だと思う。
それと古代史は、当時の東アジアの政治・文化と密接な関係性を持っていると思っている。
上の地図は、通常我々が目にする地図を反転したものだが、逆の視点、別の視点に立つと色々なことを考え付くものだ。これは建築の仕事の上でも言えることだ。
古代史の本を読むと時間を忘れるので、今は時間を決めて深夜にベッドの灯で見るようにしている。
避難安全検証法を用いた場合、避難経路等に面するガラス等を用いた間仕切壁は防火設備としての性能が必要となる場合がある。 防火設備となると価格の高い耐熱ガラスや意匠性を損なう網入りガラスしか選択できないのが現状だ。 そこで、単板ガラスに張ることで防火性能を満足するフイルムを探した。 ネット検索でヒットしたのは、下記の清水建設の2011年ニュースリリースで、大臣認定を取得済みで2011年秋には外販を始めると書いてある。それに安価なようだし、もう時間が経過しているから外販しているはずと思い、記載してある栃木県の製造会社を探したが見つからない。 https://www.shimz.co.jp/news_release/2011/826.html
そこで清水建設本社→清水建設技術研究所→三生技研→SVC(愛知県)へと電話をかけ、ようやく製造販売している会社にたどり着きカタログと見本を送ってもらった。
商品名はファイヤーブロック
製造会社に聞くところによると、中々量産化が難しかったらしい。製造ラインは幅1.5m×長3mらしいが、現在商品化しているのは1m角との事。
ところで、この材料は建築基準法第64条(外壁の開口部の防火戸)で施行令第136条の2の3(準遮炎性能に関する技術的基準)で告示例示がない為大臣認定が必要。準遮炎性能20分で屋内に面するものに限られている。
防火性能のある安価で透明なフイルムは、中々難しいのかもしれない。
4/24 「自立循環型住宅へのガイドライン・入門編」国土技術政策総合研究所・建築研究所監修の講習会に参加して来た。 「エネルギー消費50%削減を目指す住宅設計」として2005年(H17年)に発表されたガイドラインで、掲載されている情報は若干古かったが、講師の野地政宏さんの話は、実務者の側に寄り添った講義でとても有意義だった。
このガイドラインの技術的内容は、住宅金融支援機構のフラット35やエコポイント等で すでになじみのあるものが多かったが、住宅のパッシブデザインを検討する上では、とても参考になった。 建築の設計を進めていくうえで、エネルギーに関するシュミレーションツールを使いながらスタディするのは、あたりまえの時代になってきている。 野地さんは、スケッチアップを使った日照の内外部の3Dシュミ―レーションを見せてくれたが、日影図等の二次元的なものだけではなく、建築主にもわかりやすい3Dを使いこなすことが必要となるだろう。
住宅のパッシブデザインは、自然エネルギーを上手に利用していくということになる。 学生時代の民家の調査・研究から始まって、卒業時は「エネルギーと建築形態」というテーマを持っていたのだが、日常業務に追われ、いつかしか忘れていた。
3.11以降、「エネルギー」と「本当の豊かさ」について考えることが多い。
「死」を意識し始めた年齢になってきて、残された時間に何をテーマにしていくか模索中でもある。
もう、設計そのものの実務からは10年以上離れてしまったが、小さなパッシブデザインの住宅を設計し、できるだけ自分の手で施工してみたいという願いは捨てきれないでいる。
それにしても、たまの講習会に出席すると疲れる。
次回のゼミは「温熱環境の基礎~断熱と日射熱取得~」の計算方法を学ぶ。楽しみだ。
学生時代に今井町を訪れて以来だから、
もう何十年経っただろうか
今井町まちなみ交流センター「華甍」
(旧高市郡教育博物館)
この建物は明治36年(1903年)に高市郡教育博物館として建てられ
昭和4年より今井町役場として使用されていた。
現在は、今井町の歴史を解説する資料館
雨が降っていたので 資料館には長居せず今井町の街を歩いた
裏側の駐車場から
今井町を歩いている途中で晴れてきた
この写真は到着したころ
学生時代に今井町を訪れたのは、研究室で見聞きしたのがきっかけだったと思う。当時は電車とヒッチハイク(今では中々難しいだろうけど)で全国の建物や街並みを見て回った。
食べるものも食べず、駅や公園で寝泊まりし、ひたすら建築を見て回った頃が懐かしい。それが身についたかは別だが。
恩師・伊藤ていじ先生が、東京大学助手時代に関野克先生とともに調査に来られ
それが契機のひとつとなり
今西家(昭和32年指定)が重要文化財になり
平成5年に重要伝統的建造物群保存地区に指定され
現在の今井町の街並がある。
【東大寺大仏殿に至る塀】
律令制度における造営・修理事業は、内裏は造宮省・修理職・木工寮が、寺院は造寺司が管轄して、諸国からの庸・調を財源として事業を行った。一方、神社の場合には造宮使が管轄して、神税を財源として事業を行っていた。
国家的規模の寺院や神社の建造・再建・修復には、たいていは「成功」(じょうごう)あるいは「造国」(ぞうこく)という制度がとられていた。
「成功」(じょうごう)とは朝廷の公事・行事及び殿舎の営繕、寺社の堂塔修造費用など本来、朝廷の公費で負担すべきところを、任官希望者を募って任料を納めさせるか、または自己負担でそれぞれの事業の功を成らせて、見返りに官職に叙任するという売官制度の一種である。
「造国」(ぞうこく)とは、平安時代中期から南北朝時代にかけて、内裏や寺社などの造営・修理の負担を割り当てられた国のこと。その責任者となった造国の国司(受領)を造国司(ぞうこくし)という。受領国司に財源をまかなわせ、国司は任国内の税物を加徴できるようになっている。これはうまくすれば収入の一部を私物化できるので、希望者も多かったようだ。
東大寺で思い出したことだが、重源は東大寺再建の時 国家予算で建築を主導したわけではない。
「知識結」(ちしきゆい)という方法である。
各所に「知識」(ちしき・智識とは、仏教の信者が善業を積み重ねるために寺院や仏像の建立や維持、写経や福祉などの事業のために金品などを寄進すること。また、寄進者や寄進物を指す場合もある。)を結び、これをネットワークする「勧進聖」を募り、これらを組みあげながらプロジェクトを進めるという方法である。そのリーダーを「大勧進」といった。大勧進は事業計画のすべてをまかされ、立案と予算の執行権をふるうことができ、知識物(これらは進退・進止とよばれた)を自由に差配することができるが、無報酬となる。
重源は東大寺再建を成した後「大和尚」の称号を与えられているから名誉と報酬は、後からついてきている。
「知識結」は、現代的に言うとNPOと言えるかもしれない。
東大寺というと私は恩師・伊藤ていじが晩年に書いた小説・評伝「重源」を思い出す
先生が論文でなく小説を書いたと驚き、急ぎ買い求め
「重源」(新潮社刊)を読んだ記憶がある。
治承4年(1181年)、平家の南都焼き打ちで東大寺が燃えた。
その再建に法然が駆り出されようとしていたが、法然はたくみにこれをすりぬけた。
そこで無名の重源が造東大寺大勧進に抜擢されることになる
重源61歳のときである。
国宝・金銅八角燈籠
現在の大仏殿は江戸時代(元禄4年、1691年)に再建されたもので
正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m
「東大寺要録」の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、
幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、
高さ12丈6尺(約37m)、柱数84という
奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、
幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている
仁王門
奈良県庁に車を止めていたので、仁王門には行かず
美術館 の脇を歩いて帰った
桜の花弁が舞い落ちて
もう一度「重源」を読み直してみよう。